和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自分のミッション

自分のミッション

我が家のリビングの片隅に、妻が物書きやちょっとした作業をするためのカウンターがあります。カウンターの端には妻と私の書きかけのエンディングノートが埃を被っています。

 

自分たちの最期をどのように迎えたいか – 当時の妻と私はそれぞれの健康に不安を感じることもなく、平均寿命くらいまでは生きられそうだと根拠の無い自信を持っていました。体の心配をする必要がなかったからこそ、エンディングノートを書く気になれたのだと思います。

 

私たちは、お互いにエンディングノートを話題にしなくなりました。私は人生の片づけ方を気に掛けるのはもう少し先にしたいと思い始めています。妻はどう思っているのか - 私は彼女にそれを尋ねる勇気がありません。

 

以前は、何となく、家族の中で私は看取られる側だと思っていましたが、今は妻よりも一日でも長く生きて、彼女が人生を全うしたことを見届けたいと考えるようになりました。もちろん、そんなことを妻に話したら気分を悪くするでしょうから決して口にはしませんが、私の中ではこれが自分のミッションなのかもしれないと感じています。

 

正当化

ほんの一昔前まで、私は私生活を充実させるために仕事に精を出している自分を正当化していました。三十代半ばに精神的にダウンした後、仕事との距離を取ろうとしたにも拘らず、気がつけば仕事が中心の生活に戻っていました。それでも、それは私生活を充実させるためなのだと自分に言い聞かせて会社生活を続けてきました。

 

自分が正当化してきたものに私が疑問を感じたのは、介護休業や在宅勤務によって物理的に職場から離れ、自分の置かれている状況を突き詰めて考えるゆとりが生まれた後の話です。

 

今まで仕事を理由に後回しにしてきたこと。仕事を理由に避けてきた家庭内の面倒なこと。家にいる時間が増えると、それまで目を背けてきた諸々のことが嫌でも目に入ってきます。

 

結局私は、仕事に縛られていた自分を「私生活を充実させるため」ともっともらしい理由を掲げて正当化していただけでした。

 

生きる意味

私の頭の中で、仕事は生きるための手段だと割り切ることができるようになりました。しかし、私にはその考えを維持する自信がありません。いつしかまた、仕事のために生きる自分に戻ってしまうのではないか。だからこそ、私は仕事とプライベートのオンとオフを今まで以上に意識するようになったのだと思います。

 

「生きる意味」を本当に理解できる瞬間が私に訪れることはないのかもしれませんが、自分のミッションを見つけることで、今この瞬間を精一杯生きていることの理由付けにはなりそうな気がします。