和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

働く目的

休息

ほんの三年前まで、私の生活は仕事を中心に回っていました。土日祝日も半分以上は出社して仕事をこなしていましたが、「仕事とはそういうもの」と、そのこと自体に疑問を感じることなく生きてきました。

 

一年を通じてそんな状態だと、たまの休みが取れても英気を養おうとする気力も湧いて来ず、翌週のための小休止として無為に時間を過ごしてしまいます。妻や娘たちにとって私は当てにならない存在で、休みの日は“女子三人”でのお出かけが当たり前になっていました。私としては、家族と出歩きたい気持ちはあるものの、体を休めたい気持ちが勝っていました。

 

その穴埋めをしようと、何とか有休を取って家族と行動するにしても、常に頭のどこかで仕事のことを考えていました。業務用の携帯電話を持たされ、メールの確認が習慣化してしまうと、休暇中でも仕事から完全に切り離されることはありません。楽しいはずの家族との時間は、仕事につながれた首輪によって楽しみ切れずに終わるのでした。

 

仕事をするということは、生活の糧を得るのと引き換えに自分の時間を切り売りしているようなものです。しかし、当時の私は、本来自分にとって必要な時間までも犠牲にしていて、そのことに全く気がついていませんでした。時間は仕事のために割り振られ、休みの日も仕事のための休息に使われ、自分や家族のために向けられる時間は限られていました。妻や娘たちも、半ば“父親不在”の家庭に理解を示す一方で諦めを感じていたのだと思います。

 

働く目的

お金を得るために消費して来た時間は、生きていく上で止むを得ない犠牲なのだと私は考えていました。余暇は文字通りのレジャーとはならず、労働のための体力快復に回され、生きる楽しさを見出すゆとりを得るものではありませんでした。それでも、私は「リタイアすれば自分の時間は有り余るほどあるのだから」と自分に言い聞かせてきました。今まで犠牲にしてきた時間は後で取り戻すことが出来ると勘違いしていたのでした。

 

以前の記事で、歳を取ってから身に沁みで分かったことに触れました。「お金の使い道」や「自分がどうありたいか」は、歳を重ねて行く中で実感として捉えられるようになりましたが、「時間の犠牲」に関しては、私の頭から抜け落ちていたことでした。あるいは、気づかないふりをしていただけなのかもしれません。日々のスケジュールに“無駄な時間”を作らないよう、効率良く仕事を行なうことしか考えておらず、自分や家族のための時間を作ることに思い至る余裕もありませんでした。

 

もし、コロナ禍や妻の闘病、そして介護休業を経験して家族と向き合う時間を持てなければ、私は働く目的を深く考えることもせず、今も“止むを得ない犠牲”を払いながら通勤電車に揺られる日々を送っていたことでしょう。そして、そのことに疑問を感じることもなく定年を迎えていたかもしれません。