最愛の人の死
会社の大先輩のOさんは、退職後に生まれ故郷の新潟に戻り、たまの用事で上京する時にお互いに都合が合えば近況報告をする間柄です。
先月上旬、Oさんが都内の病院で診察を受けた帰りに、一緒に昼食を摂りました。前回あったのは、3年ほど前。来年喜寿を迎える先輩の姿はその時より幾分小さく見えました。
Oさんは数年前から持病の白内障が悪化し、左目はほとんど視力を失っています。そこで私は、「そうなると、益々奥様が頼りですね」と言ったところ、「いや、あれは去年死んだ」とポツリ。余計な一言だったと私は絶句してしまいました。
思い返すと、Oさんとは私がまだ若い頃に同じ社宅に住んでいて、飲み会の帰りに誘われるままにお宅にお邪魔したことが何回かありました。いつも奥様は嫌な顔一つせず、手際よく酒の肴を作ると、酔っぱらったOさんと私に交じって一緒に飲み始めるような気さくな方でした。
仲の良いと言うだけでは表せない、夫婦の鏡だったOさん夫妻。その伴侶を亡くされた気持ちは察するに余りあります。「あれは去年死んだ」。わざとぶっきら棒に吐いた言葉にOさんの寂しさが凝縮していました。
Oさんのもう一つの悩みは、引きこもりの息子さんがいることです。私よりも10歳ほど若いその息子さんは、外資系のコンサルタント会社に勤めていたのですが、リーマンショック後にリストラに遭い、その後職を転々としたものの、どれも長続きせずに、昨年から親元に身を寄せているそうです。奥様が亡くなったのはその直後のことだったそうです。
昼食にするような話題ではありませんでしたが、元はと言えば私が水を向けてしまったのです。自分の浅はかさを恥じるばかりでした。
その後、Oさんを新幹線のホームで見送ってから、私は会社に戻ったのですが、その日はOさんのことが頭から離れませんでした。年金暮らしのOさんにとっては、息子さんの面倒をいつまで見られるのか不安なはずです。他人様の家庭のこととは言え、気が気でなりません。
Oさんは、SNSもメールも使いません。その代わり、今時珍しく筆まめな方です。つい先日、Oさんから手紙が届きました。達筆な字で昼食のお礼がしたためてありました。そして、手紙の後半に書かれている内容を読んで、私はしばらく顔を上げられませんでした。
奥様の死因は睡眠薬の過剰摂取だったそうです。息子さんと一緒に暮らすようになって以来、奥様は不眠に悩まされていたようでした。Oさんは、奥様が自死したとも考えたそうですが、息子思いだった奥様が、自分だけ先立つことは考えられないとも書いてありました。
死因がどうであれ、家族を残して先立ったことに変わりは無く、奥様の心残り、そして、伴侶を失ったOさんの思いを考えると切なくなってしまいます。最愛の人を失った心の穴は埋めることができるのか、私には想像できません。
コインの裏
人生の黄昏時。長く生きられた人には、その幸いと引き換えに、西の空の残光を惜しむような寂しさが待っているのでしょうか。先に旅立ってしまった大切な人や、自分自身のわずかな余生、残された家族。いろいろな感情が自分の死と共に消えて無くなることへの寂しさ、それを受け止めることが人生の最後に待っているささやかな試練なのかもしれません。
以前、私と妻のエンディングノートの話を書きました。
エンディングノートは、書き足されること無く放置されていますが、それは、私たちが“終活”を始めようと勢い込んだのとは裏腹に、実は、未だ自分たちの死と言うものを直視するだけの心構えが出来ていなかったことの表われなのだと思いました。
特に今、妻の闘病生活を家族全員で乗り越えようとしている最中、妻も私も、病気を克服した後の生活に希望を見出そうとすることしか頭にありません。
生きることと死ぬことは、硬貨の裏表のようなものです。ともに命の受け止め方に関することに違いはありません。人は生まれた瞬間に、いずれは死ぬ存在になります。そして、やがてお迎えが来るまでは生きている存在です。生き続けることは死に向かうことであり、死を直視して考えることもまた、真面目に生きるためには避けられないことなのでしょう。