和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

内緒の話(3)

余計なお世話

入社3年目のことでした。当時、私は結婚と同時に本社に転勤となり、同じビルの関連会社に出向していました。その会社は同業他社や商社との合弁会社で金融機関からの借り入れもあったので、それぞれの会社からの出向者の寄せ集め社員で構成されていました。

 

私の先輩は商社出身で、出向期間は三年を超えていたので、そろそろ出身母体に復帰する時期に来ていました。ありきたりな表現ですが、頭脳明晰、交渉事にも長けた人物で、私はその先輩から手取り足取りで仕事を教えてもらいました。

 

その先輩が、私の勤め先の女性を見初めて結婚することとなりました。社内恋愛はゴールインまで隠し通すのは至難の業で、大抵の場合、どこからか噂が漏れるのですが、先輩とお相手の女性は慎重なお付き合いを続けていたのでしょう、結婚が決まるまで社内で噂に上ることはありませんでした。

 

さて、その慶事を聞きつけたベテランの女性社員がいました。終業時間後のオフィスに残っていたのが、たまたまその女性社員と私だけだったのですが、かかってきた内線電話を取った彼女は、大袈裟に驚いた声を上げた後、電話口の向こうにいる相手と随分と長い時間話込んできました。

 

こちらが聞くつもりは無くても、甲高い声は私の耳に届きます。先輩社員のお相手が本社の某部長の愛人だったと言うことのようでした。

 

長い電話の後、彼女は私に、今聞いた話を口外しないように言いました。もちろん、私は他人の秘密に興味は無く、誰かに話すつもりなど毛頭ありませんでした。むしろ心配だったのは、口外しないように私に命じた本人の方でした。

 

先ほどの電話からは、どうやら、“お相手の過去”がばれないように自分が口止めをして回らなければならないような口ぶりでした。私が、そっとしておいてあげたらどうかと諫めたところで、新しい退屈しのぎを見つけて目を爛々とさせた彼女の耳には届きませんでした。

 

彼女は、先輩社員に結婚相手の過去がばれたら破談になってしまうと心配したあまり – それは彼女の言い訳なのか、心の底からそう思っていたのかは分かりませんが - 口止めに奔走しました。しかし、口外するなと言われて素直に従う人間ばかりではありません。ましてや、お相手のことなど良く知らなかった社員の間にまで噂が広まってしまったのですから、仮にそれが善意からの行動だとしても、火を消すと言いながらガソリンを撒いていたことになり、余計なお世話どころでは済まなくなってしまいました。

 

その結果、噂を広めた社員数名は人事部から厳重注意を受け、ベテラン社員は別の関連会社に異動となりましたが、結婚を間近に控えていた当の本人たちは、残念ながら別々の道を歩むことになってしまいました。

 

悲しみへの追い打ち

私が入社した頃はまだイントラネットどころかEメールも無い時代でしたから、社内の通達には全て“紙”が使われていました。規程の改定や組織の改廃などの文書類は各部署のメールボックスに投げ込まれ、それを下っ端の社員が午前と午後に回収して部内で回覧するといった具合です。

 

至急回覧が必要な文書は、総務部の部員が手分けして各部署に配って回るのですが、その多くは訃報でした。かつては、社員やその身内に不幸があれば、弔電や生花の手配はもちろん、通夜や告別式に参列するのが普通のことと考えられていました。

 

一年を通して見ると、葬儀に参列する頻度は意外に多く、私も含め多くの社員は会社のロッカーに礼服と黒ネクタイ、それと白のワイシャツを置いていました。

 

葬儀への参列が半ば業務の一環のようになってしまうと、私の中で死を悼む感情が鈍化して行きました。また、家族を失った当人とは仕事でのつながりがあったとしても、故人とは面識の無い自分が斎場にいることに妙な違和感を覚え、これが故人やご遺族にとって本当に望んだ形の見送り方なのかと疑問に思ったものでした。

 

ある時、役員のAさんの息子さんがお亡くなりになりました。地方の事業所の所長として単身赴任している間の出来事でした。訃報が回るや否や噂が拡散して行きます。“長患いの息子がいたはずだ”、“いや、病気ではなく引きこもりだ”、“病気で亡くなったのではないようだ”、“どうやら自殺らしい” - 。

 

なぜ、そのような噂が広まったのかと言えば、当時の訃報には死因まで記載されていたからでした。息子さんの訃報では、死因は伏せられ、当時としては珍しく、香典・弔電は辞退することが記されていたため、かえって詮索好きの社員を焚きつけた結果を招いたのです。

 

おそらく、そのことがきっかけになったのだと思いますが、私の勤め先では、訃報を回すには本人の了解を得ることと、故人の死因は公表しないことになりました。しかし、息子さんを失ったAさんに追い打ちをかけるような噂を広めた社員は会社から処分されることはありませんでした。

 

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結婚相手が元愛人かどうか、亡くなった息子さんが自殺だったのかどうか。噂話が拡散している間、その真偽はどうでもよくなってしまいます。噂を広められた“被害者”には救済される術はありません。

 

内緒の話は、その言葉とは裏腹に、話を広めてもらいたい人間が吐くキーワードなのかもしれません。そして、噂話を広めたがる人間は、リテラシーと言う言葉とは無縁です。事の真相を知りたいのではなく、噂を他人と共有したいだけなのですから、無責任な噂を無責任に広めることに罪悪感など覚えることも無いのでしょう。

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