1万時間の壁

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下積みに必要な時間

もう10年近く昔の話ですが、仕事でのストレス解消に何か新しい趣味を始めようと考えていた時期がありました。当時北米に駐在中だった私は、人から勧められてゴルフを始めていましたが、どうも性に合わず、上達もしませんでした。やはり、気が進まないことに手を付けるものではありません。

 

そんな時、日本への出張の際に、たまたま立ち寄った書店である本に目が止まりました。タイトルは「天才 成功する人々の法則」。英国出身で新聞記者の経験を持つ著者は、その本の中で、ある調査の結果から、楽器の演奏家などの成功者はその域に達するまでにかなりの時間を要していたと述べています。その時間は1万時間。裏を返せば、1万時間の下積みを経験すれば相応の腕前になると言うことです。

 

例えば、帰宅後の2時間を何かの練習に費やすとしましょう。毎日怠けずに2時間。楽器の演奏にしても、何かのスポーツにしても、毎日コツコツ一定の時間練習すればそれなりに腕前は上達するでしょう。ただし、1万時間の壁を越えるのには、このペースだと14年近くかかることになります。もっとも、趣味の範囲で、腕前を向上させる程度であれば、なにも1万時間に固執する必要はありません。逆に練習時間をノルマにしてしまっては、練習を楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。

 

私は、あの頃すでに40代に差し掛かり、全く新しい“何か”を始めたいと考えており、どうせ始めるなら自分の新しい趣味として生涯続けられるものを、と考えていました。そして、どうせなら、自分の1万時間を献上しても良いと思えるような何かを見つけたいと考えていました。

 

残念ながら、それ以来現在に至るまで、1万時間を捧げるに相応しいものを見つけることは出来ていません。しかし、いずれ退職し時間が有り余るようになった時に、すぐに始められるものを見つけておきたいとは思っています。

 

信頼関係の壁

1万時間。自分の趣味や特技を向上させるための目安にはなることは先ほど述べたとおりです。継続は力なり、なのですから。一方で、あの本を読んだ頃の私は、もう一つ別のことを考えていました。それは、時間を費やすことによって、演奏やスポーツの技能が向上するのであれば、同様に時間を掛ければ、それに比例して人との信頼関係は強固なものになるのだろうかということでした。

 

当時、駐在期間が延びそうだという話が本社から届いており、子供の教育のことなどを考えて家族だけ日本に帰すか、あるいは家族駐在を継続させるかで毎晩妻と言い争いを続けていました。私としては、堂々巡りの議論を続けることに疲れ、妻の好きにさせれば良いと言う投げやりな気持ちも芽生え始めていました。

 

そんな最中に読んだ本だったので、粘り強く真摯に話し合いを続けることによって、お互いの信頼関係が強まり、話し合いも丸く収まるのだろうかと思ったこともありました。

 

結局、当時は私が押し切り、家族駐在を続けることで話をまとめました。妻としてはやや不満が残る結論だったことは承知していましたが、娘たちの意見を尊重した形となりました。

 

あれから10年近く過ぎましたが、私たち夫婦、あるいは家族は成長しているのでしょうか。家族が毎日顔を合わせれば、他愛も無い会話から真面目な話題を話し合うことまで様々なやり取りに時間を費やしています。それぞれの対人関係構築の能力は高まったのか、それによって信頼関係は強まったのか、ふと疑問に感じました。

 

この“実験”は家族でなければだめと言うことは無いのですが、頻繁に会って話ができる間柄の方が良いと思います。要は、長く付き合えばそれに比例して相手のことを良く理解し、信頼関係を強めることが出来るのか、がポイントだからです。

 

我が家の場合は、夫婦の間では喧嘩をしても後に引き摺らないこと、と言うのが結婚当初からの約束でした。これは娘たちにも言い聞かせていることなので、前日に派手な夫婦喧嘩や親子喧嘩があったとしても、翌朝は何事も無く始まります。喧嘩をしても、数分後には仲直りしている様子を他の人が見たら、奇異に感じるでしょうが、これが我が家流のコミュニケーション維持の方法なのです。

 

さて、そんな感じに、家族間での対話を絶やさないように暮らしてきた結果、夫婦、親子、姉妹の間で何か変化は生じたのでしょうか。家族間での対話を続けると、コミュニケーションスキルが向上するのでしょうか。私は、これはスキルの向上と言うことよりも、長年連れ添ってきて、相手の嫌がること、嬉しいと思うことが良く分かるようになったため、お互いに無用な諍いを避けるような心理が働いているのだと考えます。

 

阿吽の呼吸

演奏やスポーツなどの技能を向上させるための目安である1万時間の壁は、全て自分の努力にかかっています。たしかに、どれほど努力をしても、一部の“天才”と言われる人々には歯が立たないのでしょうが、努力によって特定の分野のトップクラスに限りなく近づくことは可能なのかもしれません。

 

翻って、人と人との信頼関係は、自分独りの努力では如何ともし難いものがあります。自分の努力によって対人関係スキルに磨きをかけたとしても、それを受け止める相手にその気が無ければ、信頼関係を構築することは不可能です。そう考えると、信頼関係とは長い付き合いの中で育まれる阿吽の呼吸なのかもしれません。

 

その点、家族の関係は信頼や信用がベースとなるはず、との考えから私たち夫婦や親子の関係に何か成長が見られたかを振り返ってみました。

 

長く一緒に住んでいれば、そのうち分かり合えるのかと言えば、そうではありません。これまでの間、夫婦、あるいは親子としての様々な葛藤があり、それを何とか克服してきたから今があるのだと思います。また、技能の向上は日々の積み重ねで、1日サボってもそれまでの積み重ねが無に帰するということは無いでしょう。

 

しかし、人間関係は、たった1度の信頼関係を損ねる行いにより、取り返しのつかないことになるリスクがあり、1日たりともサボるわけにはいかないものです。

 

何となく、家族間が“うまく行っている”今は、当たり前にそこにあるわけでは無く、日々の信頼関係を維持するための努力によって成り立っていることを考えると、家族との関係は手を抜くことが出来ないのだと感じました。