多様性の向こう側

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夫婦の役割

私たち夫婦は、結婚当初共働きでした。その後、私の海外駐在が決まり、時同じくして妻は妊娠したため仕事を辞め、専業主婦となりました。妻が再び仕事を見つけ働き始めたのは、私が2度目の駐在を終えて帰国した後、今から約5年前のことでした。

 

共働きの時期と妻が専業主婦だった時期で、夫婦の役割は異なりました。共働きの間は、家事は二人で分担。妻が専業主婦の間は、妻が主に家の中のことを切り盛りしていました。私たちはこれを至極当然のことと捉えていました。

 

もし、妻が専業主婦となった後も、共働きの頃と同じ家事分担を求めたとしたら、私は不満を口にしたでしょう。家にいる時間の長い方が応分に家事を負担すべきだと。逆に、夫婦共働きにも拘わらず私が妻に家事を全て任せるようなことがあったとしたら、妻は不公平だと私を詰ったことでしょう。

 

そのようなことは考えるまでも無いことで、家庭を支えるための努力は夫婦で公平に負担をするものなのです。

 

家族のあり方

「一家の大黒柱」と言う言葉を聞いても、若い人たちはキョトンとしてしまうかもしれません。家長である夫の下、稼ぎは夫が責任を持ち、家事育児、親の面倒は専業主婦として妻が責任を負う。私が子どもの頃は、周りの友達も母親が専業主婦と言う家庭が多かったのでした。

 

日中親が働きに出ている家の子どもは、“鍵っ子”と呼ばれていました。“鍵っ子”と言う言葉も最早死語になりました。親が留守のため、学校から帰宅すると自分で家の鍵を開けなければならない子どもを称して使われた言葉でした。

 

私は、両親が共働きやシングルペアレントの鍵っ子の友人を気の毒に思う一方で、家に帰れば母親が待っていてくれる自分を恵まれていると感じていました。無知な子どもの私は、自分の家が“普通”の家庭なのだと勝手に思い込んでいたのです。

 

共働き、専業主婦(専業主夫)、シングルペアレント。もっと言えば、子どもの有無、同性婚も含めて家族のあり方は様々で、それを“普通”に受け入れることが多様性なのでしょう。そこに優劣の差はないはずです。

 

古き考えの全否定

家族のあり方に優劣の差は無くても、“生き易さ”の差は厳然と残っています。古い世代からの偏見がその一つであり、他方、経済的・制度的なハードシップの問題もあります。

 

私たちが結婚した当初、妻の両親は事あるごとに「子どもはまだか」と妻に急かしたようです。当時私たちは、蓄えも無かったことと、しばらくは生活を安定させることに専念したかったため、子どもを持つことなど考えてもいませんでした。しかし、義理の両親は「結婚したら子供を儲けるのが当たり前」と考えていたのでしょう。その思いに悪気は無かったのかもしれませんが、私たちからすれば、偏見以外の何物でもありませんでした。

 

海外駐在先で最初の子どもを授かった時、私は産後の妻の面倒や育児のために有給休暇をまとめて取得しました。日本人駐在員からの非難に対して、現地スタッフは私を擁護してくれました。育児休業制度すらなかった時代に、家族の面倒を見ると言う当たり前のことを実行するにも肩身の狭い思いを強いられたのです。

 

今や多くの企業で、産休制度や育休制度の充実化が図られ、少しずつではあるものの、子育てし易い環境が整えられつつあります。一方で、男性の中には、仕事の忙しさを理由に、パートナーに家事や育児を任せ、自分はできるだけ“協力”すると言うスタンスの人もいるようです。

 

そのような話を耳にして不快感を覚える人もいるでしょう。しかし、私は、人によっては前時代的と捉える考えも否定すべきではないと思います。

 

夫婦共働きが主流となっても、専業主婦を希望する女性は存在します。夫から家計の助けを求められても、専業主婦に固執する妻もいます。他方、働き続けたいと思っていても、夫から専業主婦になってもらいたいと求められる妻もいるでしょう。今の暮らしに満足している夫婦もいれば、何等かの不満を抱えている夫婦もいます。しかし、そこに赤の他人が介入する余地はありません。

 

よその夫婦や家族のあり方について、それが自分の考えと相容れないからと言って全否定することなど出来ず、否定したところで無くなるものでもありません。

 

寛容と多様性

問題意識を持って行動している人は、アンテナが敏感なのだと思います。不意に飛び込んできた無関係な情報でも自分の抱えている問題と直結してしまいがちです。

 

先日、あるコンビニの総菜ブランドのネーミングが、「母親が食事を作ることが当たり前」と言う偏見を助長するものだとして、高校生のグループがネーミング変更のための署名活動を開始したと言うニュースがありました。

 

そのネーミングが彼女たちの言うような偏見を助長するものなのか、私は懐疑的です。そもそも、家庭の中で女性が食事を作ることを当たり前と捉えている人がどれほどいるのでしょうか。もし、ある家庭で、母親が炊事を一手に担い、それを見ている子どもが不公平だと感じているなら、まずは父親を含めて相談し、家族の問題として解決すれば済む話です。

 

署名グループのリーダーは、「世の中のお母さんの負担を減らしたい」と言っていますが、自分の母親の負担を減らすために具体的に何を行なっているのでしょうか。自ら家事に参加するなどして母親の家事負担を減らす努力をしているのであれば、そのような“母親以外の”家族による協力への賛同を呼びかけることこそ、「母親が食事を作るのが当たり前」と言う偏見を払拭するために行なうべきものだと思います。

 

問題意識を持って行動する若い人たちの熱意には感心しますが、問題解決後の達成イメージをはっきりさせないと、時間と労力をどぶに捨てることになってしまいます。

 

それはさておき、「母親が食事を作るのが当たり前」と考えている人はゼロではないでしょう。私はそれを肯定することはしませんが、否定もしません。誰かがそのような考えを持つのも個人の自由です。一方で、私は、炊事に限らず家事は家族全員で行うものと考えます。そして、この私の考えは、誰からも否定されるものではありません。

 

そのように、多種多様な考えを受け入れることが多様性を認めることなのだと思います。