和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

妻の時給、夫の時給(1)

自分の価値

今とは違い、私の若い頃は残業が当たり前の時代でした。平日は終電で帰ることがほとんどで、帰宅後はゆっくり湯船に浸かる時間など無く、布団に潜り込んだと思ったら朝になっている – そんな毎日でした。

 

入社当初に配属となった地方の事業所での仕事は、本社に比べたらずっとのんびりしていて、残業はまず発生しませんでした。結婚して東京に転勤してからもそんな生活を想像していた私たちでしたが、現実は、ほとんど夫婦の会話の無い平日を過ごすことになりました。妻と私は週末にその埋め合わせをするのですが、それにしても平日の時間の大半を仕事のために費やすことになるなど考えてもいなかったので、その状況を受け入れるのは大変でした。

 

結婚して一年も経っていなかった頃だったと思います。家計簿をつけていた妻が私に学生時代にやっていたアルバイトの時給を尋ねました。いろいろなアルバイトを経験してきた私でしたが、一番時給が良かったのは塾講師でした。ガソリンスタンドの店長代理は一番長く勤めたアルバイトでしたが、これは、私が大学に入学する前からオーナーにお世話になっていたからで、時給は“中の下”でした。

 

割に合わないと言う妻が電卓を叩いて示した金額は、賞与も含めた年間収入を時給に換算したものでした。もちろん、正社員とアルバイトでは控除されるものも違うので単純に比較は出来ませんが、それでも、“割に合わない”と妻が嘆くのも致し方無い数字でした。当時は、毎年少しずつでも給料はあがっていくはずだからと私は根拠の無い気休めで自分自身を慰めていました。

 

ところが、それから二十年近く経って管理職になってみると、もっと割に合わないことを実感させられました。幹部社員は役職手当がつく代わりに残業代が出なくなります。しかし、残業が無くなるわけではありません。残業が多かろうと少なかろうと毎月の給料は変わらないわけですから、管理職になり立ての頃の私の“時給”は大きく下がりました。

 

会社員は時給で働いているわけでは無いので、そんな計算をしたところで机上遊びと何も変わらないことは承知しているのですが、結婚当初の妻とのやり取りのお陰で、自分の“時給”をつい計算してしまうようになりました。

 

自分の仕事が割に合うか合わないかはさておき、稼いだお金が自分の価値を表すわけでは決して無いのですが、若い頃の私は、共働きの妻よりも手取りの多い自分の方が、貢献度が高いと思い込んでいたのです。

 

家事の対価

家事労働をお金に換算すると – 一時期話題になりましたが、あまり意味のある議論とは思えません。私は、最初の海外駐在の時に妻に一緒についてきてもらい、その後、二度目の駐在から帰国するまでの間、妻は専業主婦でした。

 

娘たちが小さかった頃は、家事の傍ら、子育ての大半は妻が担ってくれていました。実際に自分の手でやってみなければ分からないことはいろいろありますが、家事や子育てはその典型だと思います。

 

これまでの記事で、私は何度と無く30代の時に一時期戦線離脱したことを書きましたが、その休養期間が無ければ、きっと私は家事の大切さと大変さに気づく機会を逸していたでしょう。その前まで、私は専業主婦となった妻が気楽な日々を過ごしているものだと勘違いをしていました。実際には彼女は子育てに孤軍奮闘していたのですが、どれほどの不安を感じていたのかは、彼女と向き合い落ち着いて話をする時間が出来るまで私には知る由もありませんでした。

 

専業主婦・専業主夫は三食昼寝付きの気楽な身分では無く – もちろん、どんな仕事でも手抜きは出来ますが - 過ごしやすい環境を整え維持するのは簡単なことではありません。

 

あの頃、私が外で安心して仕事に取り組めるのは、妻が家を守ってくれているからだと遅まきながら気づかされ、それをきっかけに、自分も家事に取り組みたいと思えるようになりました。

 

家事労働は、夫婦や家族としての共同生活を快適に送るために必要なもので、義務でも無ければ対価を求める類のものでも無く、自発的な貢献なのだと思います。また、快適に過ごすために必要なものだとすれば、家事をやることに対して“割に合わない”と感じてしまうのもよろしくありません。一緒に生活している家族の誰かにだけしわ寄せが来るようならば、家事の棚卸しと役割分担の見直しが必要になります。(続く)