和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

春先

春先のこの時期、私にはあまり良い思い出がありません。数年前の今頃、数十年前の今頃、自分が何をしていたか頭を過ることがありますが、それらは大概不快な記憶です。失恋の痛手、受験の失敗、メンタル不調 - 。同じ時期の良い思い出を探そうと思えばいくらでも見つかるのですが、悪い記憶が勝手に割り込んできて、明るい情景を押しのけてしまいます。

しかし、それは私の個人的な心持ちの問題で、妻に打ち明けるにはばかばかしく、ましてや専門家に相談するようなものでもあるまいと思い、静かに悩み続けてきました。

個人的でばかばかしい悩みは、ある時期を境にとても軽い、取るに足らないものに変わります。歳を重ねてストレス耐性が高くなったのではなく、“気づき”によるものだと思います。

“結果”は後から変えることはできません。受け入れるしかありません。そんな当たり前のことを私はようやく“受け入れる”ことができるようになりました。

思うに、私の悩みは“あるべき自分の姿”とのギャップを埋められなかっただけの話でした。理想と現実。手に入れられなかった理想の結果は過去に置き去りにされたまま、もう一度のチャンスが訪れることはありませんでした。変えられない現実に私は苦しんでいました。

翻って、私は今の自分に不満なのかといえば、そうではありませんでした。勝手に思い描いていた“あるべき自分”とは違うけれども、今の自分を憎んでいるわけではなく、むしろ自分や自分を支えてくれている家族を好きでいられるのならそれで十分ではないか ‐ ある日の帰宅途中の通勤電車の中、何の前触れもなく舞い降りてきた“気づき”で私は救われたような気になりました。

今でも過去の嫌な思いが不意に蘇ることがありますが、気持ちが沈むようなことはありません。不快な経験も心弾む経験も全て今の自分の一部として受け入れられるようになりました。