和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

母の長話

年に一回、高齢の母親に認知症の検査を受けさせるようにしています。

本人は、「ボケ老人扱いするな」と言うこともあれば、「いよいよボケてきたのかもしれない」と弱音を吐くこともあります。自分の都合の悪い時はボケたふりをしているのかもしれません。

今回もお医者さんの見立ては「異常なし」。息子としては一安心ですが、母の四人の姉のうち、すでに鬼籍に入っている二人は、ともに、晩年は認知症を患い、自分が何者なのかも分からずにこの世を去りました。

母が私のことを息子だと分かっているうちに看取ることができれば – などと思うのは不謹慎なのは分かっています。ただ、伯母たちの最期を知る人間からすると、長く生きる分幸せが増えるものではないのだと考えます。

認知症ではないと診断されたとはいえ、ここ最近の母の感情の揺らぎは、私にとって少々気がかりになっています。

テレビで若い女性が被害にあった事件を見れば、すぐに我が家に電話がかかってきます。年頃の孫娘たちに何かあったら生きていけない、帰りが遅い時は私が駅まで迎えに行くように、変な男に騙されないように親が見守らなければいけない – そんな話が延々と続きます。

私は老母の説教に辟易してしまいますが、妻はそんな母の長電話に、私たち家族のことを心配してくれているのだからありがたく思うようにと言います。

母は自分の心身の衰えから、自分が先に逝くことをより強く感じるようになっているのかもしれません。残される息子や孫たちへの心配は、その思いの強さの表れなのだとすれば、長話を邪険にせずに“ありがたいこと”として受け止めなければならないのでしょう。