和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

料理作りの張り合い

料理作りの張り合い

今の家を建てる時に、私の身長に合わせてキッチンを設えてもらいました。「どうせ週末しか料理をしないのに」と文句を言う妻を押し切ってまでそうしたのは、たまの料理作りが私の息抜きになっていて、それを老後の楽しみのひとつにしたいという気持ちが私の中にあったからでした。

 

とはいえ、私は料理の腕に自信があるわけでも特別な拘りがあるわけでもありません。手の込んだ料理は作りません。いつものスーパーでほぼ決まった食材を買い込んで、できるだけマンネリにならないように組み合わせて料理するだけです。

 

今、毎日の食事のメニューは、妻のその日の体調によって決まります。以前は妻の分だけ別に用意していましたが、今は、家族全員同じメニューです。

 

妻のお腹の調子があまり良くなければ、くたくたになるまで柔らかく茹でたうどんやおかゆがご飯の代わりに食卓に並びます。ハンバーグは好きだけど“重い”と言われれば、ひき肉と豆腐を半々にして豆腐ハンバーグが夕飯のメインになります。体調の悪い時でも妻が食事を楽しめるように工夫することに、私は妙な張り合いを感じています。

 

ゆとりの時間

振り返ると、これまで平日のほとんどは妻が夕飯の支度をし、娘たちが小さかった頃は、入浴から寝かしつけまで妻が受け持ってくれていました。

 

帰宅の遅かった私に不平をぶつけていた妻の口からやがて文句も聞かれなくなり、頼りにならない夫をあてにしなくても生活が回るようになった頃に、その頼りにならない夫が病気休職一歩手前となり、妻に余計な負担をかけることになりました。

 

夫婦の間で貸し借りの話をするのは意味のないことかもしれませんが、私は妻に対してとても重い負い目を感じています。

 

今の私が毎日妻や娘たちのために食事を用意することは、苦ではなくむしろ楽しみになっていますが、心の片隅に妻に対する贖罪の気持ちがあります。

 

夫婦そろっての生活があと何年続くか分かりませんが、私の体が元気に動く間はキッチンに立ち続けたいと思っています。

 

今の私の姿は、三年前の自分からは想像がつきません。きっかけは妻の闘病でしたが、私はそれよりもずっと前から、家族と食卓を囲んで穏やかに過ごすことを望んでいたのでしょう。こんな形で時間と心のゆとりを手にしたのは、私の愚かさ故のことですが、せっかくのゆとりの時間を大切にしたいと思います。