和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

夫婦の加点主義

演じる自然体

結婚して三十年も寝食を共にしていると、お互い空気のような存在になってしまい、付き合っていた頃の新鮮さなど思い出すこともなくなってしまいます。

 

付き合ってた頃は、自分が結婚相手として相応しい人間だということをアピールすることに余念がありません。それは、妻も同じことで、お互いに「気の置けない相手」、「自分が自然体でいられる相手」だと思っていても、そこには、ある程度相手に合わせ、相手から “結婚相手として相応しい人間”に見られるような努力がありました。結果、お互いに相手に対する好感度が高まり結婚に至ります。

 

ところが、結婚して実際に一緒に暮らすようになると、相手の前でいつまでも“努力”を続けることは無理な話です。四六時中一緒にいれば、おならもげっぷも出ます。くしゃみも大音量になります。寝ぐせを気にせずに家の中を歩き回ります。妻も程度の差こそあれ、私と似たようなものです。相手に対する好感度は結婚した時点がピークだったことを知るのでした。

 

そもそも、結婚前の“自然体”は最低限相手に配慮した自然体なわけで、本当の自然体を晒して、相手がどこまで受け入れてくれるか、相手が自分にとって本当に気の置けない人間で、自分が自然体でいられるか否かは、そこから試されることになります。

 

相手の良いところを探す努力

結果として、私たち夫婦はここまで一緒に過ごして来たので、お互いに自然体でいられる相手だったのは間違いなさそうですが、それよりもむしろ、私は相手の良い面を発見しようと努めて来たことが、夫婦長持ちの秘訣だったのではと考えます。もちろん、それは、私の側だけではなく、妻の側のことでもあり、彼女の方が私よりもずっと忍耐と努力を積み重ねて来たのかもしれません。

 

結婚前までは、自分を相手にどう見てもらうかばかりに気が向いてしまい、相手の良い面を積極的に見つけようとしていたかというと甚だ疑問です。それは、お互いが相手にとって相応しい役を演じているために、努力無しで相手の良いところ(良く見せようとしているところ)が目に入るだけなのだと思います。

 

結婚生活を続けて行くのに、相手が自分を受け入れてくれることが必要であるのと同じく、自分が相手を受け入れることも不可欠です。それは、所作や振舞いの問題ではなく、心の底、本音の部分で分かり合うことが出来るか否かの話です。結婚以来、私が日々の生活の中で妻の良い面を見つけようとしてきたのは、妻が自分にとってかけがえのない存在だと言うことを自分に分からせるためだったのだと思います。

 

結婚当初ピークを迎えた私の妻に対する好感度は下がりましたが、それはあくまで表面的なもの。山あり谷ありの夫婦生活を歩んできた中で、私は彼女の良い面をたくさん見つけることが出来て、幸せにしてもらえました。

 

もっとも、それは私から見た話で、もしかしたら妻はとっくの昔に私に愛想を尽かして、それでも我慢して一緒にいてくれるのかもしれません。そんなことを妻に尋ねる勇気は私にはありませんが。