和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

欲求の質

原動力

以前の記事で何度か人間の欲求について書いてきましたが、私は自分の経験から、欲と言うものは歳を重ねるにつれて無くなって行くものなのだと思っていました。

 

食欲や性欲は肉体の成長とともに高まり、肉体の衰えと共に鎮まって行く。現に私の肉体の盛衰と欲とは相関しているようです。また、物欲や見栄のような、ある意味人間らしい欲求も歳と共に薄らいでいます。

 

そのような諸々の欲は、これまでの私の活力の拠り所であると同時に、ストレスの根源でもありました。若い時の私はその点、単純で、お腹が満たされることにより、あるいは妻と肌を重ねることにより、欲が満たされた気になりました。

 

欲が鎮まると言うことは、満たしたいと言う思いに束縛されなくなるので、悪いことではないような気もする反面、枯れて行ってしまう自分に対する淋しさもあります。

 

アラフィフからアラカンに差しかかった私は、これから何を原動力にして生きて行けばいいのかと考えることがあります。

 

欲求の質

四十代から五十代にかけての私は、肉体的な衰えと向き合い、生き方を見直そうとしていた時期でした。今、五十代から六十代に向かう私は、衰えと向き合うのではなく、あるがままに受け入れようとしています。

 

欲求が無くなってしまっても、それは決して悪いことではない、欲求とは別の何か大切なものがあるのかもしれない。それは何なのか。そんなことをつらつらと考えています。

 

その答えはまだ見つかっていません。ただ、最近、よく頭に浮かぶのは、自分や家族のための時間を大切にしたいと言う思いです。私の心が思っているなら、それは私の欲求でもあるのでしょう。今まで、本能的な欲求が前面に立っていたために見えなかっただけで、それらが、潮が引くように去った後にようやく姿を現した精神的な欲求なのかもしれません。

 

自分の時間 - 自分に残された時間ではなく、今生きている、この時間と、大切な人に寄り添って支えたいと言う願い。それは、家族に対する愛情を持ち続けたいとの思いから来るものなのだと考えます。

 

そう考えると、私は、欲求が無くなってしまったように感じていただけで、欲求の質が変わったことに気がついていなかったとも言えます。