和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

思い続ける気持ち

お互いの気持ちは二の次

結婚して三十年近くも経つと、妻も私も日々お互いの気持ちを確かめ合うことなどしなくなりました。海外駐在中は、周りを見渡すと、私たちよりも上の年齢の夫婦でも、人目を憚らずにキスしたりハグしたりするのは当たり前で、そのようにして気持ちの確認しているのだろうと理解はするものの、私もそれを真似てみようと言う気にはなりませんでした。

 

娘たちが生まれてからというもの、私たちは親としての役割を考えて生きてきました。その中でお互いの気持ちを確かめ合うことは二の次だったのかもしれません。二の次にしてきたのは、相手の気持ちはいちいち確認せずとも分かっていると考えていたからなのだと思います。

 

もし、私たちが子どものいない夫婦だったとしたら、結婚後も変わらず恋愛感情を持ち続けていられたのか。子育てが終わって親としての役割から解放された今、夫婦だけの時間が増えることに伴って、お互いの気持ちは変化して行くのか。その辺りのことは私には良く分かりません。

 

変わらぬ気持ちの保証

相手の気持ちが気にならないのかと問われれば、決して気にならないわけではありませんが、これまでの経験や自分自身の心を整理した結果、相手の気持ちを気にしても仕方の無いことだと言う考えに辿り着きました。

 

それは、相手には何も期待しないと言う突き放したものではありません。どんなに親しい間柄だとしても、自分以外の人間の心は自分の思いどおりにはならないからです。こちらが好いているのと同じくらい、あるいはそれ以上に自分のことを好いていて欲しいと思っていても、それが叶うが否かは自分で決められることではありません。

 

結婚前、妻と付き合っていた時間は二年にも満たないものでした。私が結婚を意識し始めたのは半年を過ぎた頃でしたが、私は正式に妻にプロポーズすることを躊躇していました。

 

すでに体の関係になっていた二人でしたが、私は自分の気持ちの整理がついていませんでした。自分が妻を思う気持ちが、将来の伴侶として添い遂げたいと言う純粋なものなのか、はたまた、肉体的な若さゆえのリビドーに突き動かされただけのものなのか。

 

さらに私の悩みを増幅させたのは、妻を欲する気持ちが単に私の独占欲ではないのかとの疑念でした。交際期間中の週末はほとんど妻と一緒に過ごしていましたが、時たま妻が友人と旅行に出かけて、私が独り

週末に取り残されると、私よりも友人の方が大事なのかと子供じみた嫉妬心を抱きました。そんな時、私は、自分が妻を好いていると思っているのは実は妻を束縛したいだけなのではないだろうか、と自分の気持ちに自信が持てなくなりました。

 

妻は私のことをどう思っているのか。私は悩みながらも妻の本心を確かめたい衝動を堪えていました。妻の気持ちを確かめ、それが自分にとって期待どおりのものであろうと、あるいは失望するものであろうと、妻の気持ちは元からそうだったわけで、何かが変わるわけではありません。“きっと妻も自分のことを思ってくれている” – そのように考えるだけで十分だと自分を納得させました。

 

私から妻への正式なプロポーズはありませんでしたが、妻との間で「結婚するのだろうな」と言う雰囲気が高まって、その後、結婚に反対する双方の両親を説得する中で、二人の結婚への思いは勢いを増したのだと思います。

 

その間、私は自分の心をどのように整理したのかと言えば、結局は整理しきれずに結婚生活を開始したことになりました。こんなことを妻に話したら怒られてしまうので、今まで決して話題にしませんでした。これからも話題にすることは無いでしょう。

 

突き詰めて考えると、私自身の気持ちが変わらない保証はどこにもありません。二十代の、知恵浅き私の考えではありましたが、この点については、今の私も否定しません。相手を思い続けていられるか確信が無いからこそ、私は折に触れ自分の気持ちを確認し続けています。

 

妻も私も五十代の半ばに差しかかりました。容姿の衰えはお互い様とは言え、妻は抗がん剤の副作用による脱毛や肌荒れで、寄る年波以上に大変な思いをしています。そんな妻の姿を見て、私は自分の気持ちに変化が生じるのだろうかと不安になったことがありましが、妻に対する愛おしさは変わることはありませんでした。自分を疑うことは恥ずかしいことですが、私としては自分の気持ちのうつろいが無いことを知って安堵しました。

 

相手を大切に思う気持ちは、相手から自分への見返りを期待するものでは無く、自分自身と同じように相手を慈しむものなのだと思います。