感情と向き合う時間の必要性
今の職場に不満は無いと言う人は別として、何等かの不満を覚えて、感情を抑えながら仕事をしている人は、日々の仕事に流されずに、忙しく、心に余裕の無い時こそ、自分の感情と向き合う時間を設けるべきだと思います。怒り、疲労、恐怖など、負の感情を抱いているとしたら、それは何が原因なのかを自問することによって、どうすれば解決できるのかは分からないにしても、そのヒントを手に入れることぐらいは出来るかもしれません。
自分の感情と向き合うことを避けていると、やがて自分で自分が何を考えているのかすら分からなくなってしまいます。自分の考えがまとまらない、何を考えているか自分でも分からない、そうなると、やがて考えることが面倒になって、考えようとすること自体を諦めてしまうことにもなりかねません。
私は、一番多忙を極めた時期、会社で寝泊まりするような生活をしていたことがあります。これは、以前、別の記事で触れましたが、駅のホームから電車に飛び込んだらどんなに楽かと、変な気を起こす寸前まで来たことがあります。
当時は、自分の気持ちを見つめる時間も余裕も無く、目の前の仕事をこなすことで頭が一杯でした。そうなってしまうと、感情の無いロボットと同じです。山積みの仕事を前に心にゆとりが無くても、自分の感情というものはそこに – 自分の中に – あるのです。それをほんのわずかな時間でも構わないので、掬い取ってあげることは、自分を見失わないために必要な行為だと考えます。
もし、忙しくて、わずかな時間すら作れない、そのようなことを考えること自体煩わしい、という状態だとしたら、思い切って仕事を休むべきです。自分の感情と向き合う時間はそれだけ大切な意味を持つのです。
感情の源泉
他人の心の中など覗き込むことは出来ませんが、自分自身の心の中を見ることは可能でしょうか。自分の、今抱いている感情がどこからやって来たのかを正確に言える人はどれだけいるのでしょうか。
何となく朝からイライラする。脈略無く不意に、何かにぶつけたくなるような怒りを覚える、突然物悲しくなって涙が止まらなくなる。そのような経験を人に話すと、“情緒不安定”の一言で片づけられたり、心配顔で「病院で診てもらったら」などと言われたりすることがあります。
しかし、映画やドラマ、小説などを見たり読んだりしていて、登場人物に自分の感情がシンクロしてしまい涙が溢れたり、絶望的になったりした経験は誰でもあると思います。感情がそのように共鳴するものだとすると、訳もなく悲しくなったり、やり場のない怒りを覚えたりするのも、どこかにそのような感情を震わせる原因があるのではないでしょうか。
自分の頭では、もう済んだこと、終わったこととして片づけたつもりのことでも、潜在意識の深いところで滓となって残っているもの。それが不意に感情を共振させている可能性があるかもしれません。
成功体験は、一時の歓喜を得られるものの、高揚感は長く続くものではありません。逆に負の体験は、努めて払拭しようとしても、いつまでも引き摺ってしまう。忘れたと思っていたら、ふとした瞬間に前触れも無くフラッシュバックしてきた、という経験は誰でも持っていると思います。
私の拙い経験では、自ら招いた失敗は、それを直視して反省することで消化することができます。他方、自分ではどうしようもないこと、例えば、同じ仕事の失敗でも、他者から責任を押しつけられたり – あるいは、押しつけられたと思い込んだり - 、親子や親族内でのトラブルなどは、自分で納得のいく解決に至らないことがほとんどで、無理に心の奥にしまい込んでしまうことが多いと思います。
そのような経験自体は、努力して忘れられたと自分では思っていても、当時抱いていた憎悪や失望などの負の感情だけが何かの拍子に息を吹き返すのです。
私も父との葛藤や、仕事を干されたときのやり場の無い怒りや恨みを今でも思い出すことがあります。過去のことをいつまでも引き摺るとは、料簡が狭いと思われるかもしれません。しかし、これが未だに払拭できない私の負の感情なのです。
ただし、かつての私と今の私の違うところは、そのような負の感情に無理に蓋をしなくなったことです。負の感情とその原因となる経験は、忘れたくても忘れられるものでは無いこと、また、自分の意思とは関係無く気まぐれに心の底から湧き上がってくることを知りました。従って、今は、そのような感情が浮かび上がってきた時には、首を振って無理に気を紛らわそうとせず、むしろ、当時どのような気持ちだったのか、どのように整理しようとしていたのかを冷静に思い出すようにしています。
良い経験、悪い経験を積んだ結果が、今ある自分であると言うことを認められれば、負の経験から生まれた感情をも受け入れられる時が来ると思います。