お金の重さ 善意の重さ

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給付金の有難み

新型コロナ感染症対策の一環として、特別給付金の申請が始まりました。諸手続きに伴う混乱はあるようですが、家計への支援が始まったことは嬉しいニュースです。このほか、個人事業者のための持続化給付金や学生向けの支援給付金も創設されました。

 

メディアでは、給付金額の少なさや手続きの不備がクローズアップされていますが、まずは行政のサポートが動き出したことを肯定的に評価したいと思います。10万円を稼ぐことがどれほど大変かを知っている人には、給付金の有難みはきっと伝わると思います。

 

困ったらカンパ

苦労してお金を稼いだ経験のある人は、わずかな額のお金でもその有難みを知っています。

 

私が大学生だった頃は、すでにバブルも終盤に差し掛かっていました。父は零細企業を営んでいましたが、バブル崩壊以前に会社の経営は破綻していました。

 

私は親からは大学進学を反対されていたこともあって、奨学金とアルバイトで学費を工面しました。一浪中にアルバイトしてお金を貯めていたのですが、入学金と前期の授業料で全て消えてしまいました。苦労して稼いだお金も無くなる時はあっという間です。

 

大学の同期の中には、私同様授業料の支払いに苦労している友人が何人かいました。そして、学年が進むにつれて ‐ バブル崩壊が近づくにつれて ‐ 親の懐事情が厳しくなってきた同級生も現れ始めました。

 

4年生のある時、必修科目の講義の後にカンパを募る小箱が回ってきました。後期の授業料が払えない同級生のために、有志でお金を集めると言うものです。私はカンパを断りました。そもそも、財布の中には千円札すら無かったのです。

 

私が、自分の学費を支払うだけで精一杯だと説明すると、一旦はカンパに同意していた者の中から考えを変える者がぞろぞろと出てきました。途端に教室の中が険悪な空気で満たされました。まるでカンパに応じなかった方が悪者です。

 

このままでは場が収まらないと思った私が、小銭入れにあった百円玉を2~3枚、“親友代表”に渡した時でした。彼は舌打ちして言いました。「たったこれだけかよ」。あの当時、私はまだまだ“尖がっていた”頃なのですが、何故か言い返しませんでした。その後の予定が詰まっていたからか、自分は百円の価値が分かっていると思ったからでしょうか。

 

百円の重み

件の同級生は入学当初からお金に困っているようには見えませんでした。一方、当時の私は実家を飛び出して独り暮らしをしていたので、学費と生活費で毎月のアルバイト代は飛んで行ってしまいます。私と同じように学費を払うのに苦労している同級生もいました。そんな中で、ついこの間まで羽振りの良かった男に、急に金が無くなったからと言って、助けてやろうと思う人間が何人いるでしょうか。

 

毎月親から仕送りをしてもらっているお金と自分で働いて稼いだお金は、同じ数百円でも重みが違います。自分で稼いだお金だからこそ、たった数百円でも理由も無く他人に与えることができないのです。

 

自分で苦労してお金を稼ぐようになると、その重みをひしひしと感じるようになります。逆にお金に苦労したことが無いと、使ってしまったら簡単に手に入れられると勘違いしてしまいます。カンパは彼の親友のアイデアだったのでしょうが、同級生全員が気前よくお金を出してくれるものと勝手に期待していたのでしょう。

 

後になって伝わってきた話では、彼は大学入学以来、親の仕送りだけで過ごしてきて、アルバイトの経験もありませんでした。学費用のお金を使い込んでしまい、親友に泣きついてきたのがカンパの発端でした。無事に卒業したところを見ると、お金の工面は何とかできたのでしょう。

 

人の善意を軽んじる行為

十数年前の話になりますが、子供の難病治療のための募金が流行りました。“流行りました”と言う表現は相応しくないのかもしれませんが、当時は何件か同様の募金活動がメディアでも頻繁に取り上げられました。

 

その頃の日本では臓器移植のガイドラインが非常に厳しかったことから、移植手術が一般的な医療として定着している欧米で手術を受けさせるための募金活動が行われました。海外で臓器移植手術を行うとなると、日本では想像できないほどの費用が掛かります。それに加え、渡航費・現地滞在費なども含めると募金の目標額は1億円を優に超えることとなります。

 

私は、募金活動を完全に否定するつもりはありません。自分の子供のためとは言え、一般的な家庭にとって1億円を超える費用は簡単に用意できるものではありません。

 

しかし、一部では、当事者が自分の懐を傷めずに、費用全額を募金で賄おうとしているのではないかという疑問や、不明朗な会計処理も問題視されていました。そのようなこともあってか、私は当時、あらゆる募金活動に懐疑的になっていました。

 

ここで、私は募金そのものの問題を深掘りするつもりはありません。ただ当時、一部の募金活動は人の善意や同情をあまりにも軽く扱っていました。会計報告をしない、あるいは報告が杜撰、というのは、募金で集めたお金は返す必要の無いものという意識があったからに他なりません。

 

募金に賛同する人々は、これで病気が治ってくれたらという祈りを込めて募金箱にお金を落とします。これは、無条件に与えられたお金では無く、子供の病気治療のために託されたお金です。善意の人々から預かったお金だと言う意識があれば、いい加減な資金管理など出来るはず無いのはもちろんのこと、1円でも無駄にしないという決意があって然るべきです。

 

また、善意を受けるのは、自分の出来ることをすべてやり終えてからだと思います。持っている資産を売り払い、会社から借金をし、親戚中を回り・・・。それでも、どうしても目標額に届かない分についてだけ人様のご厚意に縋るというのが、普通の考え方だと思うのです。

 

お金の有難みや人の善意の重さが分かっている人は、軽々しく人を頼ることはしません。