和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

主人と奴隷

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従順な部下を育てる

「洗脳」と聞くと、怪しい宗教や収容所などを思い浮かべます。もっとも自分にとっては縁の無いもので、変な組織には近づかないようにしようと心に留める程度の話です。しかし、洗脳というのは、自分の気がつかないうちに行われているものです。

 

毎日、始業時間の1時間前に始まるミーティング。各担当が前日までの自分の業務の進捗と改善すべき点を報告していきます。どんなに順調に仕事を進めていても、改善すべき点はあるはずだ。昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと良い仕事ができるはずだ。それができないのは努力が足りないからだ。

 

仕事上の失敗はつきものです。同じ過ちを繰り返してはならないということは、失敗した本人が一番良く知っていること。しかし、上司は執拗に尋ねます。「何故失敗した」、「どうしてそう思った」、「どうすべきだった」・・・。些細な失敗でも、上司から詰問されるとそれがとても重大なことのような気がしてきます。経験の浅い社員は委縮して、自分が無能者だと勘違いしてしまいます。

 

本当は能力のある人間でも、失敗ばかり指摘され続けると、“ミスをしたらいけない”という思いで頭が一杯になり、本来の力を発揮できなくなってしまいます。上司の務めは部下の能力を引き出すことにあるはずですが、そのような考えを持たない管理職もいるのです。自分に従順な部下を“育てる”ことに喜びを感じる人間。会社の中で主人と奴隷の関係を築こうとする人間です。

 

退職の理由を知らず

K君は私の二つ下の後輩でした。当時人事部で新入社員研修の担当をしていた私は、約30人の新入社員の“相談役”でした。研修期間はゴールデンウィークまでの約1か月。会社の近くのビジネスホテルに泊まりこみ、それまでに、各部門の業務内容の説明から工場見学、ビジネスマナー講習などの研修を受け、連休明けに正式に配属となります。

 

K君は新入社員の中でも、誰とでも打ち解け合える穏やかな性格の持ち主でした。研修最終日に私は新入社員数名に誘われて、会社の近くにある居酒屋に行きました。K君は自分の目指すキャリアパスを熱く語りました。

 

それから2年。最初の配属先だった札幌から本社に異動になったK君が、私のところに挨拶に来ました。私はその頃海外事業部門に異動していて、残業続きの毎日。K君には近いうちに一緒に飲みに行くことを約束しましたが、約束を果たせないまま1年近くが過ぎました。

 

その間、K君とはたまに社員食堂やエレベーターホールで顔を合わすことがありました。「今度飲みに連れて行ってくださいよ」、「分かった。そのうちに」。K君の顔色が冴えないことには気がついていた私ですが、当時自分の仕事で手一杯だったこともあり、空約束で胡麻化してしまったのです。

 

そして、ある日人事発令を見て、私はその月一杯でK君が退職することを知りました。K君の本社での所属は花形の企画部門。何故彼が会社を辞める決断をしたのか。K君の内線電話にかけると、すでに有給休暇を取っていて、もう出社する予定はないとのこと。私はとても後悔しました。こんなことになる前にどうして彼の話を聞いてやれなかったのか。

 

私と同じ部門にK君の同期がいたので話を聞くと、同期での送別会の誘いも受けずにK君は辞めていったそうで、退職の理由は分からないということでした。当時の人事部は今よりも口の堅い人間で固められていたので、そちらからの情報も得られず仕舞でした。

 

奴隷牧場

K君の元上司にSさんという人がいました。30代半ばに体調を崩して、関連会社に出向したまま、定年まで本社に戻ってくることはありませんでした。その時私は日本を離れていたので、お互いに長い間顔を合わせていなかったのですが、3年前のOB会で久しぶりの再会となりました。先に気がついたのはSさんの方でした。現役の時よりも大分貫禄がついた姿は、好々爺然としていました。

 

お互いに当り障りの無い話をしていると、思い出したようにSさんが言いました。「Kって覚えているか」。私は最初、誰のことか思い出せず、Sさんに名前を聞き直したくらいK君のことを忘れていました。

 

毎日の“朝会”と称する早朝ミーティングでの自己反省と、仕事のミスをネチネチと論う部長。最初に音を上げたのはSさんでした。成果を上げられないと思い込んでしまったSさんは、それを挽回するために残業や休日出勤を続けるようになってしまったそうです。それに付き合ったのがK君。その部長が狡猾なのは、決して残業を強要することはしなかったのです。仕事のミスや遅れを挽回するための方法を本人に考えさせ、追い込みました。そうやって自分に歯向かえない奴隷のような部下を作りだしていたのでした。

 

当時は今と違って、勤怠管理が緩い時代でした。残業や休日出勤は自己申告だったので、人事部も実態を把握しにくかったのです。やがてSさんは過労で入院し、しばらく休職した後、関連会社に異動となりました。Sさんが休職中にK君が退職してしまったので、この二人も長い間音信不通だったのだそうです。

 

そして二人は偶然の再会を果たします。中華街の地下鉄のプラットフォームでたまたま遭遇したそうです。到着した電車から降りてきたK君にSさんの目が止まりました。Sさんは電車を1本やり過ごしました。

 

K君は横浜にある小さな貿易会社に勤務しているとのこと。独身のK君の頭は年相応に薄くなっていたものの、顔は若い時の面影が残っていたそうです。うちの会社を辞めた後、いくつかの会社を渡り歩いてたどり着いたのが今の会社。元気そうな姿のK君でしたが、Sさんが飲みに誘うときっぱりと断ったそうです。「あの会社のことは思い出したくありませんから」。

 

件の部長はK君が退職した数年後に、部下の人生を狂わせた代償を払うこともなく、定年退職を迎えました。

 

あの時、自分のことしか考えられなかった自分。もし、K君の相談相手になってあげられたら、状況は変わっていたのかもしれません。