和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

選択ミスとプランB

選択ミス

AとBの二つの選択肢があって、Aを選んで失敗すると、「やはりBを選んでおけばよかった」と後悔する – 若い頃の私がそうでした。様々な場面で、選ばなかった“選択肢B”が積もり積もって、それがストレスになっていました。

 

思うに、自分の意に沿わなかった結果は、往々にして勝手な期待を抱いていたことが原因なのですが、私はそれを“選択を誤った”ことにしてやり過ごそうとしていたのでした。

 

正しい選択をしていれば上手くいったはず。なぜ選択を誤ってしまったのか。そんなことを悶々と考えていては精神衛生上よろしくありません。

 

私が三十代前半にしばらく休養したことは過去の記事でも何度か触れましたが、その時カウンセリングをしてもらった先生からは、悩みがあればノートに書き出すと気分が楽になるとアドバイスされました。

 

無精者の私は、せっかくのアドバイスに従うことはありませんでしたが、休養中、妻からお願いされたことをこなす日々を過ごす中で気持ちが軽くなっていくのを感じていました。

 

仮眠を取るためだけに帰宅するような生活と、幾多の業務上の選択を迫られる日々を過ごしているうちに、自分は全て間違った選択をしているような錯覚に囚われ、壊れてしまったのだと思います。

 

休養中に気分が楽になったのは、自分自身で選択する必要がなくなったからなのでしょう。妻の言うとおりに動くだけで済むのですから、選択ミスを気にすることもないわけです。

 

プランB

選択が正しかったのか誤りだったのか - 本質はそこではなく、自分が選択肢Aを受け入れられているのか否かの問題なのだと気づいたのはいつの頃だったのか、当時の記憶はとても曖昧で、瞬時に目の前の靄が消え去ったような気づきだったのか、徐々に確信するようになったのかすら思い出せないのですが、悩みの本質が選択することではなく、自分の選んだ道を自分自身が受け入れられているか否かだと考えるようになりました。

 

妻との結婚も娘たちを授かったことも自分がそこにいることも、選択が正しかったからではなく、自分がそれを有難いこととして受け入れられているだけなのでした。

 

仕事上の選択が当初の期待に沿うものでなかったとしても、後戻りできない以上、それはそういうものとして受け入るしかないのです。

 

結局、自分がすべきは、選択肢Bを選ばなかった後悔ではなく、善後策としてのプランBを練ることなのですが、そんな簡単なことにその歳になるまで気づかなかったのでした。

 

不本意な結果は将来の教訓として活かすだけにしました。過去のことに引き摺られないように心がけるだけで、私の気持ちはだいぶ楽になったと思います。