和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

心の危険信号

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分かりづらい異変

心と体をベストな状態に保つことは、大切だと分かっていても意外に難しいものです。振り返ってみると、私の20代から30代にかけては、心身ともに好調な時期はほとんどありませんでした。

 

残業や、時には徹夜で仕事を片付けるのが当たり前だった頃は、慢性的な寝不足でした。その上、仕事付き合いの酒席が重なれば、二日酔いのまま出社することも珍しくありません。すっきりしない頭を濃い目のコーヒー等で胡麻化しながら仕事を続けるわけですから、体に良いはずがありません。

 

週末は妻と遠出を楽しんだり、子どもが生まれた後は、家族で遊びに出掛けたりと気分転換を図っていましたが、以前記事に書いたように、その頃の私の記憶の中には、家族との楽しい思い出はほとんど残っていない状態でした。

lambamirstan.hatenablog.com

 

30代半ばで精神的に参ってしまって戦線離脱した後に復帰した職場では、それまでのような無茶はしなくなりましたが、社内の人間関係から来るストレスは、仕事の量をセーブしようと、睡眠時間を確保しようと、軽減されるはずも無く、何となく胃袋の中に鉄の重りが入っているような暗然とした気分の毎日を送っていました。

 

きっと、長期休養しなければならないほどの精神的なダメージを受けた人なら、その前兆が分かるようになると思います。私は復職した後に、何度か前兆を感じました。訳も無く焦燥感を覚えたり、周囲の情景が遠くのものに見えたり、人の話す言葉の意味が理解出来なくなったり - そんな時は躊躇なく会社を休んで何も考えない時間を作るようにしました。

 

今はもう、そのような前兆を感じることも無くなりましたが、それは、無駄な欲を捨てられたことや、自分こそが大事だと考えられるようになったことが大きいと思います。結局、自分が負ったものは自分に返ってきます。心と体の管理は自分の責任なのです。

 

心と体はどちらかが不調だと他方に影響を与えます。どちらも蔑ろには出来ないのですが、以前の私は、心の不調を正確に捉えることを知らず、その必要性を理解していませんでした。

 

何となく気分が乗らなくても、“気のせい”とか、“弛んでいる”と、怠惰な自分に活を入れて会社に向かう – そんなことが何度もありましたが、それが本当に自分の怠け癖のためなのか、心がSOSを発信しているのか考えもしませんでした。

 

私は最初に倒れるまで、不意に襲ってくる焦燥感に汗を垂らし、会議中の人の話が理解出来なくなった時、それを異変だと考えず、単に寝不足で頭が回らないからだろうと思い込んでいました。その頃は布団に入っても寝付けない日が続いていたので、睡眠障害と言う異変に気づいても良さそうなものでしたが、自己分析出来る余裕などありません。精神的な限界が訪れてダウンした後になって初めて、あれが前兆だったのだと知ったのです。

 

大切な自分

自分中心、家族中心に物事を考えられるようになってから、私の肩の荷はとても軽くなりました。心と体のバランスが取れているか、自分を客観視しセルフマネジメントが出来るようになると、心身からの危険信号に敏感になります。とは言うものの、日々の仕事に追われ、多忙を極めると自己管理が疎かになってしまいます。

 

もっとも、私は昨年、体調不良に悩まされましたが、それは、目の前の仕事を片付けることに意識を集中するあまり、まさに自己管理が疎かになったことが病気の予兆を見逃した原因でもあるので、まだまだ偉そうなことを言える立場ではありません。

 

肉体的な異変は、自覚症状が無くても、健康診断や人間ドックで見つかることがありますが、日常生活の中でも、熱が出たりおなかを壊したりと、体の変調は症状で気づくものです。肝心なことは、その変調が不摂生や不規則な生活によるものなのか、精神的なダメージによるものなのかを考えることです。

 

心にストレスがかかると体に異変が生じるのは、多くの人に当てはまるのではないかと思います。私の体に現れた症状は円形脱毛症でした。20代から30代にかけて、“10円ハゲ”が出来ては治りの繰り返しでしたが、40代から以降、症状は現れていません。これは、ストレスを溜めない生活を送れるようになったためと、自分なりに解釈しています。

 

私の場合は円形脱毛症でしたが、人によっては、吐き気や下痢、発疹など何らかの症状が体に現れ、それによって心の変調に気がつくことになるのだと思います。そして、その変調に気づいて早めに対処出来れば幸いだと考えます。

 

反対に、体に何の症状も現れなければ、心の不調を見逃してしまう危険があるのではないでしょうか。

 

20代の頃、私と同じ部署の先輩が、ある朝無断欠勤しました。前日までは普通に仕事をしていたので、理由が思い当たりません。まだ携帯電話が普及する前の時代。私や同僚は先輩が住んでいる単身寮の寮母さんや実家などに電話したものの居所が掴めませんでした。そして、夜になって、先輩が医療機関で保護されていることが分かりました。

 

先輩はその朝、寮からそれほど遠くない住宅街をパジャマ姿で徘徊しているところを通報され、警察に保護されたのですが、氏名や住所も言えない状態でした。

 

その後、先輩は病気休職の満了により退職となってしまったので、私の記憶には、普段からテンションがやや高い先輩の姿しか残っていません。傍から見て、先輩が心を病んでいるなど想像も出来ませんでした。もしかしたら、本人も、あの朝を迎えるまで、自分の心の危険信号を知らなかったのかもしれません。

 

今、私は無理しないよう自分に言い聞かせていますが、娘たちにも同じように言い聞かせています。周囲の期待に沿えないことを恥ずかしいと思う心理は多少なりとも誰もが持っています。言われたとおりに出来なかったら“恥ずかしい”。職場で期待どおりの成果を上げられなかったら“恥ずかしい”。そうやって自分の面目を保つために削り続ける心は、やがてポキンと折れてしまいます。

 

自分に出来ないことを「出来ない」と口にすることは勇気のいることですが、他人の評価と自分の心と体のどちらが大切かを考えれば、悩むような話では無いのです。