働く理由と人生の意味 (2)

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生きる意味への自問

ワーカホリックで仕事が中心の毎日になってしまうと、自分や家族と言う本当に大切にしなければならないものが見えなくなってしまいます。決して人生は働くためだけにあるわけではありません。

 

ほとんどの人々にとって、働くのは生活の糧を得るための手段であって、そのこと自体が人生の目的では無いと思います。もし、「自分の一生をこの仕事に捧げたい」と言うような仕事を見つけられた人は幸運です。芸術家のように一生をかけて自己表現を追求したり、世の中のために役立つ研究開発に人生の全てをかけたりすること、それを天職とする人はごく一部に限られます。

 

私の場合、生活するためにはお金を稼がなければならない、どうせお金を稼ぐのであれば、世の中のためになる仕事に就きたい、と言うのが就職先を選ぶ際の基本的な条件だったと記憶しています。したがって、私は、恥ずかしながら、高い志を持って仕事を選んだわけでは無く、現在の仕事は生活するための手段の域を出ないものなのです。

 

「自分があるのは生きるため」と書きましたが、どんなにお金を稼いで健康に気をつけても、いずれは天に召される命です。では、何故生きるのか。若い頃、私は生きる意味を考え始めると、いつも袋小路に迷い込んでしまうのでした。

 

将来の夢と現実

人の一生は産声を上げた瞬間から始まります。やがて、自我が芽生え、物心がつき、自分で自分の将来のことを考えるようになります。

 

皆さんも幼稚園や小学校で将来の夢を書かされたことがあると思います。私の頃は、男子だと、プロ野球の選手が圧倒的に多かったような気がします。その他、宇宙飛行士や電車の運転手など。女子は、看護婦(今は“看護師”と言わなければいけないのでしょうが)、お嫁さん(これも今の時代ではクレームがつくかもしれません)、歌手・・・・。皆、それぞれに、自分がなりたい職業を思い描いていたのです。子供の頃の夢を叶えられたならとても幸せなことですね。

 

小学校の卒業文集で、「将来の夢」がお題となりました。私はその時、原稿用紙を前に、「ぼくは、」と書き出しただけで先に進めませんでした。担任の先生から、何でも思いついたことを書くように促されても、私は固まったまま。その日の放課後、教室に独り残されました。

 

これまで何度も将来の夢を書く機会がありましたが、いつも私は、父の仕事を継ぐことを自分の夢だと書いてきました。しかし、この卒業を前にした文集で、改めて将来の夢を考えた時、父の仕事を継ぐことは自分の夢ではないことに思い至ったのです。

 

作文が書けない理由を先生にどのように伝えたか覚えていませんが、先生には私の思いが伝わったのでしょう。後日、母が学校に呼ばれました。

 

先生は母との面談後、私に「大人になったら何になりたいか、素直に書いてごらん」と言いました。職員室の片隅で、私は原稿用紙2枚を30分ほどで書き上げました。なりたい仕事は「探偵」。ちょうど横溝正史さんの小説にはまっている時期でした。小学生のくせに早熟な一面もあったのでしょうね。

 

思い返すと、私が小学校に上がった頃から、父の経営する町工場の仕事を手伝わせられました。決して父が私に無理強いをしたわけではありません。工場には、作業用の工具や機械が置かれていて、子供にとっては何となく秘密の遊び場のような感じの場所でした。そこで私は従業員に交じって作業で出たごみを片付けたり、製品を箱に詰めたりと、簡単な仕事をしてお小遣いをもらっていました。

 

父は、私のそんな姿を見て、自分の仕事を継いでくれるものと期待していたのだと思います。小学校の卒業を控えた頃には、家族の中では私が後継ぎになることが決まった雰囲気になっていました。一方の私は、こんな時分から自分の将来を決められては堪ったものでは無いという気持ちが湧き出していたのです。

 

卒業文集で、私が将来探偵になりたいと書いたことは、家で問題となることはありませんでした(当たり前ですが)。しかし、高校に入った頃から、私の進路が親子間の揉め事の種となりました。小さい頃の将来の夢では無く、現実問題として自分の将来と向き合う時期に差しかかっていたのです。

 

職人気質の父は、高校を卒業したら手に職をつけろと言い、私は法律の勉強をしてその方面の仕事に就きたいと言い張り、話し合いは平行線のままでした。

 

価値観の植え付け

親は、親としての子供への期待を持っています。子供をスポーツ選手に育て上げようと小さい時から寸暇も惜しんでトレーニングに励む親子もいますが、大抵の親は、子供が生活に困らないように、とか、良い暮らしができるようにと言う思いが底流にあり、そこから、子供に「良い学校」に通い、「良い仕事」に就いてほしいと願うのです。

 

それが子供自身が望んで始めたことなら何の問題もありません。しかし、普通に考えて、幼稚園児や小学校低学年の児童が、自ら進んで“良い学校に進みたいから学習塾に通わせてほしい”と親にせがむことがあるでしょうか。

 

幼い子供は、親の価値観に疑いの目を向けることはありません。庇護者である親の期待に応えることが親を喜ばすことだと、子供なりの気遣いがあるのではないでしょうか。

 

親が理想とする子供の将来像と、子供が思い描く自分の将来像が合致していれば何の問題もありません。しかし、子供が人生の岐路に立った時に、親の思いと自分の考えの間に乖離を見つけてしまうと、やがて親子にとって苦痛を伴った決断を迫られることになります。(続く)