働く理由と人生の意味 (3)

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親の期待とアイデンティティーの確立

生まれてきた子供に大きな期待をかけるのは、どの親も同じだと思います。健康に育ってくれればそれで満足と言っていた親も、周りの様子を見るにつけ、子供には将来、お金に困らない生活を送ってもらいたい、そのためには「良い学校」に通い、「良い仕事」に就いてもらいたい、と期待と夢が膨らんでいきます。

 

世の中の仕組みが良く分かっていない子供にとっては親が唯一の羅針盤です。もちろん、本当に子供自らの意思で習い事に通い始めることもあるでしょうが、親の独りよがりであることが多いことも事実です。スポーツ選手になるためのコーチレッスンや、楽器の英才教育はまだしも、進学塾に通っている子供の多くは、親がそうするようにしているだけではないでしょうか。

 

しかし、そんな子供もやがて気がつきます。「これは自分が望んだことなのか」と。もし、今まで操り人形のように誰かに動かされていた自分が、実は糸が切れても自分で動くことができると知った時、初めて親と向き合うことができ、自分で考える力を得ることができるのです。それでも親が子供を操り人形のように扱えば、子供は本当の自分を見失ってしまうことになります。自分で自分の道を切り開く機会を逸してしまいます。

 

そう考えると、操り人形の糸は必要最小限にしておいて、しかも、できるだけ早くに親の方からそれを切ってしまうのが良いのかもしれません。その糸とは、幼稚園や学校に任せきりにしてはいけない躾や道徳であって、親が子供に授けるべきものだと考えます。そして、子供がしっかり分別がつけられることを見届けたら、親の出番はそれでおしまいです。あとは、子供が自分は何者なのか ‐ どこから来て、どこに向かおうとしているのか ‐ を自分で考えさせることです。

 

「将来の夢」破れて「これからの夢」を抱く

実はここまで書いてきたことは、子供の教育の話では無く、大人である私たちがどう歩んできたかを振り返るためのものでした。

 

子供の頃に抱いていた夢を実現した人を私は尊敬します。もちろん、周囲の支えもあったのでしょうが、それでも一貫して自分の夢を追い続けてそれを勝ち取った強い意志は、誰もが持てるものではありません。子供の頃の夢を叶えられなかった人の方が断然多いのです。

 

しかし、「将来の夢」が破れたからと言ってそれで人生が終わるわけではありません。同様に、受験に失敗しても、就職に失敗しても、失恋しても、人生が終わるわけではありません。それらは人生のほんの一部のイベントでしかないからです。

 

それにも拘らず、夢が破れて自暴自棄になってしまう人がいます。叶わぬ夢を追い続けて時間を無駄にしてしまう人、引きこもって社会とのつながりを断ってしまう人、自ら命を絶ってしまう人。目の前の夢が破れたとしても、そこから先の人生で新しい夢を抱くこともできるはずなのです。

 

私も結局、子供の頃の夢だった探偵にはならず、また、途中いくつか別の夢に破れた後に、今の仕事に就いています。大学も第一志望の学校ではありません。仕事には就けましたが、自分の思い描いたようなものではありませんでした。仕事で干されたこともあります。失恋も・・・人並にしています。

 

それでも自暴自棄にならずにここまで来たのは、自分の人生の意味を探している途中だからだと思います。そして、生きて行くためには何らかの張り合いも必要となります。目の前の夢が絶たれたら、新しい夢を抱く必要があります。

 

人生の意味を探す意味は?

立川志の輔さんの落語の中に、「蚊に刺されると痒くなるのはどうして?」というくだりがあります。普段あまり気にも留めないことをあれこれ考え始めると、何となく自分が哲学者にでもなったような錯覚に囚われますが、自分の人生の意味とはなんだろう、一生のうち一度でも人様のお役に立つことをしなければならないのだろうか、誰の役にも立たないのだとしたら、自分の存在意義は何なのだろう、そもそも、人生の意味を探す“意味”などあるのだろうか、とつらつら考えていると、思考が循環して収拾がつかなくなってしまいます。

 

「人生の意味を探すのが“人生の意味”だ」などと、真顔でナンセンスなことを言う人も出てきそうですが、「何故自分は生きているのだろう」と考えても答えが見つからない時に、見当違いな理由を無理やりこじつけてしまっても意味を成しません。

 

蚊に刺されたら痒くなるのは、“痒くならないとどこを掻いていいのか分からないから”と言うのが答え(?)ですが、これまで多くの識者と言われる人々が導き出した人生の意味に対する答えも、誰もが腹落ちするようなものでは無いと思います。

 

痒くなったら、考える前に掻く。人生の意味が分からなくても、まずは考えずに生きていく、でも良いのではないでしょうか。

 

私は最近になって、人生の意味はその時々に自分が決めればいいことなのだと思うようになりました。私は歴史に名を刻むような功績を上げたわけでも無く、今後もそれは期待できないでしょう。それでも、私よりも長く生きるであろう娘たちの相談相手にはなれるはず。些細なことですが、これだけでも私の生きている意味になるのではないかと思っています。

 

もし、事故や災害などで家族が犠牲となり、私だけがこの世に取り残されたら。それで私の人生の意味は無くなってしまうのでしょうか。そうではありません。家族がこの世に生を受け楽しい人生を歩んだ証を何かの形で残してあげることが自分の人生の意味にもなるのです。縁起でもないことを、と妻に怒られそうですが。

 

自分が幸せな人生を送れたかどうかは、死ぬ間際まで分かりません。何故、どうして、と立ち止まって考えることも時には必要ですが、それでも答えが見つからなければ、歩きながら考えても良いのではないかと、今ではそう思うようになりました。