当たり前のことに感謝 (2)

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「当然」な存在

自分にとって大切な人を「空気のような存在」などと言うことがあります。いつも自分の傍にいてくれて、困った時に頼りになる存在。いなくなって初めて大切さが分かる存在。そんな、“いるのが当然”の存在は、普段は文字どおり空気のように意識することはありません。

 

私の場合、空気のような存在をあえて意識するようになったのは、父の死に目に会えなかったことの影響が大きいと思います。亡くなって初めて、実の親に対して自分が心を開いていなかったことに気がつきました。妻とは結婚当初から、何でも話し合える関係を築くように努力していたにも拘わらず、自分の親に対しては一歩踏み出すことができなかった。その大きな後悔により、私は一層、妻や娘たち、そして老母に対して、空気のような存在だからこそ、そのありがたみを意識するようになったのです。

 

それは、相手が自分と一緒にいてくれることへの感謝、当たり前の存在が、当たり前に目の前にあることへの感謝とも言えます。でも、家族に対していちいち「ありがとう」というのは照れ臭いことです。照れ臭ければ、「サンキュー」でも、「メルシー」でも、「ダンケシェーン」でもなんでもいいのです。何か些細なことでも、相手が自分のため、家族のためにしてくれたことに対して、「あなたのしてくれたことが役に立っている、あなたがいてくれるだけで幸せだ」と言うサインを送ることができれば良いのです。

 

従属から主体へ

お世話になった人と、次はいつ会えるか分からないといった場面では、自ずときちんとお礼を言おう、とか、良い一日を過ごせるようにしようと考えるのではないでしょうか。

 

ところが、いつも傍にいてくれる、あるいは、離れていたとしてもいつでも話ができる、そんな近しい存在への感謝の気持ちは、普段は、それがあるのかすら意識することはありません。

 

思うに、私たちは一人前になるまで、親を始めとする大人たちの庇護の傘の下で育てられます。衣食住、教育の機会、娯楽・・・保護者が出来得る範囲で、様々なものを与えられ、生かしてもらっているわけです。

 

それに対する感謝の念は、いつ芽生えるものなのでしょうか。子供に対して、「感謝しなさいよ」などと、冗談交じりで言う親はいます。しかし、子供が心の底から親に感謝するようになるのは、親が期待しているよりもずっと後になってから、あるいは、子供に感謝されないまま一生を終える親もいるかもしれません。

 

子供が自発的に ‐ 親だけでなく、周囲の当然と思っていたことに対して ‐ 感謝の気持ちを抱くようになるのは、親から巣立ち、主体性を持って生きられるようになるだけでなく、自分がかつて、庇護者に従属していた存在であったことに気づくことが必要なのではないかと思うのです。

 

自分の行いに対する報酬

自ら考えて歩き始め、今まで当然であったことが、実は当然では無かったことに気づき、“当然のことへの感謝の気持ち”が湧いてくる瞬間。

 

そのような“気づき”が私に訪れたのは、すでに私が中年の域に達した後でした。それまで私は、自分の力だけで成り上がってきたと過信していました。親に対しては、半ば蔑む感情がありました。しかし、“今ある自分を当然のこと”と思えるようになるまで育ててくれたのも親であるという事実に、ようやく気づくことができました。それと同時に、親は私に感謝してもらいたいために私を育ててきたわけでは無いということを、心の底から理解できるようになったのです。

 

それまでは、妻に対しても、まだ幼い娘に対しても、家族のために働いている自分に感謝してほしいという感情が、常に頭のどこかにあったのですが、誰かのための行為に対する報酬は、決して感謝してもらうことでは無く、相手が自分の行為によって安心できたり、悩みを解決できたりした瞬間を見届けることなのだと思うようになりました。感謝してもらうことは、いわば“おまけ”のようなものです。「ありがとう」と言われれば、悪い気はしませんが、「ありがとう」と言ってもらうことを目的にしてはならないということです。

 

感謝はしても、感謝を求めない

「自分が役に立っていることを実感したい」。そう思うのは当然のことだと思います。しかし、それを“貸し借り”の話に貶めたり、金銭的な見返りを求めたりすることは、商売として報酬を受け取る場合を除き、すべきではないと考えます。

 

親しい間柄でのお金の貸し借りはすべきではない、と言われることがあります。親友に貸したお金が返ってこなかったら、信頼関係は崩れ、親友が親友で無くなってしまいます。お金が必要な相手をどうしても自分が助けたかったら、お金を貸すのではなく、お金をあげろとも言われます。

 

どんな場合でも、自分の期待が裏切られると、相手に対して失望や嫌悪の感情を抱くことになりますが、余計な期待を抱きさえしなければ、嫌な思いをせずに済みます。誰かのためにした行動も、相手からの感謝を期待して、それが裏切られてしまうと、不快な思いをしたり、相手に対する悪い感情を惹起したりと言うことにもなりかねません。

 

「相手に何も期待しない」。こう言うと、とても寒々しい感じがするかもしれませんが、決してそうではありません。“相手のために”と思っている行為が、本当に自分が相手のためだと思っているのか、そこにほんのわずかでも打算は無いのか、を自分自身の胸に聞いてみることが大事だという意味です。

 

迷っている人に道を教えて、お礼の言葉が無かったとしても、それであなたが不快な気持ちを抱く必要はありません。困っている人を助けようと言う無垢な気持ちから発した行為であるなら、その目的が達成されれば満足なはずです。

 

逆に、自分が助けてもらった時には、助けてもらった相手に、惜しみなく感謝の言葉を伝えては如何でしょうか。手を差し伸べてくれた相手に対して感謝することができれば、その手はもっと多くの人を助けるようになると思いませんか。