リタイアの潮時

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無欲の人

会社での地位が上がると、自分は偉くなったと勘違いする人間がたくさんいます。組織の中の役割が変わっただけなのに、急に支配者面して顰蹙を買う人間です。

 

その反対に、どれだけ地位が上がっても、役員になった後ですら下の人間から慕われる奇特な人も存在します。その人は縁や偶然が重なって、自分の思いとは関係無く副社長になってしまいました。

 

私は副社長がある部署の部長の時からの付き合いで、会社の近くの、汚いけれど料理は旨い居酒屋でときどき顔を合わせていました。もっとも、私がその店に顔を出すのは残業を終えてからなので、あちらはすでに“出来上がっている”状態。私は適当に食べ物を胃袋に詰め込むと、千鳥足の部長をタクシーに押し込んで郊外の家まで送ることになります。そんな日が月に2~3度あったでしょうか。

 

飲むとだらしなくなる部長でしたが、悪く言う部下はおらず、何故か別の部署の若手・中堅社員からも、その人柄から“絶大な”人気を集めていました。

 

社内にはいろいろな派閥があります。事業部門、管理部門、研究部門とそれぞれの部門のトップである担当役員は自分の配下の人事権を握っています。仕事の成果もさることながら、役員に如何に取り入るかが出世のカギ。しかし、部下に人気のある部長は、そのようなことには無頓着でした。

 

希望の星

ある時、例の居酒屋で飲んでいる時に私が役員人事の話を向けると、部長は「俺は定年になったら、かあちゃんと豪華客船で世界一周する約束をしているんだ」と、出世には全く関心が無い様子。定年まであと3年を残す頃だったと思います。

 

しかし、人生何が起こるか分かりません。部長の同期で一足先に役員となっていた管理部門の副部門長が病死してしまいます。後任候補は複数挙がりましたが、当時はまだまだ年功序列が色濃く残っていた時代。全く注目されなかった部長に白羽の矢が立ちました。

 

社内は大騒ぎです。「あの部長でも役員になれた。俺たちの希望の星だ」役員に昇格して、下の人間からあれだけの祝福を受けた人は後にも先にも、あの部長だけです。そして、奇跡(?)はそれだけに止まりませんでした。

 

その2年後、社長が交代となり、その後(部長改め)常務の豊富な実務経験や歯に衣着せぬ率直な物言いが気に入られ、管理部門のトップである専務に昇格、翌年には副社長に昇格と驚きの連続でした。その後の4年間、社長補佐として副社長は多忙の日々を送りました。

 

天の声

偉くなっても昔と変わらないのが副社長のいいところでした。役員ともなると、通勤には社有車があてがわれるのですが、これを固辞。昔のように郊外から電車の通勤を続けました。仕事帰りも変わらず、汚い居酒屋で会社の誰かが来るのを待ちながらの晩酌を好みます。

 

この時期、会社の業績が捗々しいとは言えず、副社長に昇格した後も依然社有車を使わないことから、その下の役員も電車通勤を選ばざるを得なくなりました。このことを苦々しく思っていた役員もいましたが、社員から副社長の判断に反対する声は聞こえませんでした。

 

ところが、副社長4年目の春、定時総会の準備に忙しい中悲劇が起きました。私はその前年の夏に秘書室に異動となり、副社長が社長と打ち合わせをしている時、部屋の前で待っていました。打ち合わせの最中、ソファに座っていた副社長は突然崩れ落ちました。その物音で私は応接室に駆け込みます。意識はあったものの、体に力が入らない状態。すぐに医務室の看護師を電話で呼びました。副社長はすぐに救急車で病院に搬送されました。診断の結果は脳溢血。右半身の麻痺と呂律が回らないといった後遺症が残りました。

 

定時総会を約1か月後に控えたある日、私は担当の秘書とともに副社長の入院先を訪れました。辞任届に署名をもらうためです。人気のあまりない病院の食堂。テーブルを挟んで向こう側に副社長と奥様が座ります。副社長が慣れない左手で辞任届に署名するのを申し訳ない気持ちで見ていると、奥様がぽつりと言いました。「きっと、もう引退しなさいって天の声なのよ」

 

私は思わず頷いてしまいました。部長のままで定年を迎えていたら、奥様と旅行を楽しんでいたはず。気の毒に思う気持ちと、これで副社長も重責から解放されたのだという安堵感がごちゃ混ぜになって、泣き顔なのか笑顔なのか自分でも分からない表情になっていたと思います。確かに病に倒れたことは残念なことでしたが、それと引き換えに奥様との平穏な生活に戻れたことは、副社長ご夫婦にとっては最良の結果だったのではないか、老後の生活を始める潮時だったのではないか、と思いました。

 

幸せな老後生活を送るために

誰しも心身ともに健康な状態で定年を迎え、老後生活を楽しみたいと思うもの。副社長は奥様との老後生活を間近にしながら、会社の事情に翻弄されてしまいました。飲むとだらしなくなってしまう副社長でしたが、本当は人一倍会社とそこで働く自分の後輩たちのことを大事に思ってくれていたのでしょう。

 

副社長は幸いにして老後を楽しむまで快復しましたが、仕事に専心するあまり自分の体の異変に気がつかず、命を落としてしまう人もたくさんいます。そう考えると、人生の潮時は自分で判断すべきだと思うのでした。