和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

退職後の人生設計 最初に考えること

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燃え尽き老人

会社のOBに会うのは、楽しみでもある反面、ショックを受けることもあります。退職後の老後生活を満喫している様子顔を見て分かる人もいれば、中には、現役時代のギラギラしていた目が落ちくぼんで、生気を失ってしまった人もいます。

 

私の勤め先では年1回、役員や社員のOBとの懇親会を開催しています。総務部と秘書室が幹事となる集まりなので、現役役員と一部の社員が出席することになるのですが、私はある時期からいろいろと理由をつけて欠席を続けています。

 

あまり気が進まないという理由もあるのですが、もっと大きな理由は、円満退職とならなかった元社員を排除していることです。不祥事を起こして退職したわけでも無いのに、上からの覚えが良くなかったOBや主流の経営陣との関係が悪かった役員は、懇親会への案内が届きません。私は秘書室に勤めていた時にそのことを知って、やるせない気持ちになってしまいました。

 

現役時代の仲違いがあっても、上司の不興を買っても、一旦退職したら水に流すのが大人の振舞いだと思っていたのですが、少なくともうちの会社では事情は異なるようでした。

 

その一方で、裏の(?)OB懇親会と言うものが存在します。これは、単に退職した先輩社員との飲み会なのですが、私はこちらには時折顔を出すようにしています。今年はコロナ禍のため、この手の懇親会は開かれないでしょうが、昨年までは年末近くになるとお誘いのメールが届いていました。

 

ほぼ毎年行われる裏懇親会。久しぶり会っても相変わらず達者な先輩もいれば、たった1年でこんなにも老け込んでしまうのかと驚いてしまう人もいます。1年という時間は現役世代にとってはあっと言う間ですが、一部の退職した方々にとっては、とてつもなく長い時間だそうです。

 

老け込んでしまった先輩の際たるものは、早期退職して、まだ60歳前にも拘わらず、その風貌は70代と言っても信じてしまうほどのものでした。奥様の反対を押し切っての早期退職だったようですが、何か次の目標があるのかと言うと何もない様子。のんびり過ごしたいというのが退職の理由で、その言葉どおり家でのんびり暮らしているうちに奥様に愛想を尽かされてしまったようです。

 

若くして“独居老人”となった先輩は、家事全般を奥様に依存していたため、奥様に見放されてしまうと何もできません。そこで奮起して家事や料理の勉強をし始めたのかというと、そんな様子は無さそうでした。退職の理由が「のんびり暮らしたい」というのですから、今さら新しい苦労を背負うようなことはしたくないのでしょう。

 

私はまだ現役なので、自分が退職した時にどのような気持ちになるのかは想像することしかできませんが、仕事の重圧からの解放される喜びというものは、きっとあるのだと思います。あるいは、喜びでは無い虚脱感を覚えるかもしれません。ただし、私も妻も、自分たちの退職後は新たな目標を持って過ごすことを考えており、退職に伴う虚脱感があったにせよ、それは一過性のものだと思っています。

 

しかし、先輩のように確たる目的を持たずに、「退職後はのんびり暮らしたい」と言うのは生きるためのモチベーションにはならないような気がします。聞くと、朝起きてリビングのテレビの前で過ごす日々だそうです。60歳前にして老人然とした風貌は、その生き方が投影されたものなのだと思います。

 

思うに、私の父も事業を畳んで、母と共に地方に居を移してからは、何をするわけでも無く抜け殻のような生活を送っていました。そのため、年に1,2度会うたびに老け込んでいく父の姿を見て、侘しさを感じていました。

 

生きがいを失ってしまった人間は、老木のように朽ち果てるのを待つだけの存在になってしまうのです。

 

ポスト仕事人生

学業を終えて仕事に就いてから30年以上働いているとなると、人生の半分を自分、あるいは自分と家族の生活のために費やしていることになります。

 

会社勤めの場合は、定年が大きな区切りとなりますが、その後の自分の時間をどのように捉えるかで生き方も変わってきます。働けるうちは働き続けるのも良いでしょう。あるいは、それまでの蓄えと自分の自由な時間を使って、趣味の世界に没頭することも素晴らしいことだと思います。

 

ただし、死ぬまで自分の体が言うことを聞くわけでは無いので、やりたいことを存分に楽しめる時間はそれほど長くは無いのかもしれないことは覚悟しておく必要があります。夫婦の場合、二人での楽しい生活を夢見ても、どちらかが先に健康を損なうことになれば、別の生き方を考えなければなりません。お金を稼げるうちに稼いで、老後の楽しみを先に取っておくことが必ずしも良い考えとは限らないのです。

 

今は、自由選択定年制度を導入していたり、定年後の一定期間、嘱託で働き続けることもできるなど、多くの会社で退職の時期を自分で決めることができるようになりつつあります。元気なうちにやっておきたいことがあるのなら、その前に、自分に相応しい退職時期を考える必要があるのではないでしょうか。

働くこと、生きること (2)

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生きることの理想と現実

理想の生き方とはどう言うものを指すのでしょうか。これは人の価値観が大きく影響するので一概には言えませんが、心の安寧を維持したいというのは誰もが望むものだと思います。そのためには何が必要なのでしょうか。

 

言い方を変えると、今の生活に満たされていないと感じているとしたら、何が欠けているのでしょうか。お金? 時間? 心穏やかに過ごすために何が必要なのでしょうか。

 

お金に困らない生活がしたいとは誰でも思うものですが、財布の中身を気にせず何でも買えるようになれば心が満たされるのかと言うと、必ずしもそうとは言えなさそうです。お金は将来への不安を解消することには役立つかもしれませんが、「お金さえあれば」心の平和が訪れるとは限りません。

 

時間がもっとあれば、いろいろなことができるのに。日頃時間が足りないと嘆いている人も多いのではないでしょうか。しかし、思いがけずたくさんの時間を手に入れられたとして、今まで時間が足りないことを理由に諦めていたことを実現しようと一歩踏み出す人はどれだけいるでしょうか。コロナ禍で自宅待機や在宅勤務となって、自由な時間が増えた人はいると思いますが、増えた時間をどのように活用したのでしょう。

 

自分の自由になるお金と時間が欲しい。でも現実は、仕事に追われてその日その日を生きて行くだけで、思いどおりにお金も貯まらず、自分の時間も十分に作れない。それが、ほとんどの人にとっての現実なのだと思います。

 

欲しいものを手に入れると言うこと

私の家庭は私が小学校を卒業する頃までは裕福でした。父親の事業も順風満帆。父は別荘を買い、クルーザーを買い、子供の私にも欲しいものは何でも買い与えてくれました。しかし、別荘にしても、ボートにしても、そして私が父にねだったものも、心の平和のために必要なものでは無かったと思います。

 

父にしてみれば、“何かを買う理由”は、分不相応なお金を手にして、ぜいたくな気分を味わいたかったということでしょうし、私にしても、友達が持っていたものやお店で衝動的に欲しくなったからと言うだけだったと思います。今振り返ってみれば、「欲しいと思ったものを手に入れる」という欲求を満たすことが目的だったわけで、それでは手に入れたものに愛着など湧くわけがありません。父に買ってもらったものは押入れの隅で埃を被り、父は、事業が傾き始めた途端に別荘やクルーザーを売り払ってしまいました。結局、お金をどぶに捨てたのと同じです。

 

私は、物欲と言うものは一旦は満たされても、それは一過性のもので、次々に現れる物欲を満たしたいと言う衝動は終わりが無いことを知りました。私にも衝動的に物欲が下りてくることがありますが、そのような時には、しばらく間を開けることにしています。そうすると、1週間前まであんなに欲しいと思っていたものに、何の興味も示さなくなった自分がいる、ということもあります。本当に欲しいものとそうでないものを取捨選択する習慣をつけると、自ずと物欲をコントロールできるようになり、自分にとっての「足る」を知ることになります。そして、衝動的な物欲に任せること無く、本当に欲しかったものを手に入れられるようになるのです。

 

たくさんの時間よりも今この瞬間

時間に関しては、たくさんの時間を手に入れることよりも、今この瞬間を何に費やすかを考えるべきだと思います。どんなにお金を稼いでも、時間だけは買い戻すことは出来ません。20代の自分にはその時にしか出来ないことがあります。子供が幼稚園児なら、その時にしか一緒に楽しめないことがあります。ある日食卓で、聞いてほしいことがあると頼んできた妻や子供は、その時しかいません。相談事を持ち込んだ部下は、その時しかいません。「忙しいから後で」と思っても、後になって家族や部下との時間を取れる保証は無いのです。

 

私は30代のある時まで、子供の世話や家事を妻に押しつけていました。育児や家事に全く参加しなかったわけでは無いのですが、仕事優先の生活を送っていたのです。仕事をこなして給料を稼ぐこと。それが家族のためだと信じていたからです。もし、その考えを捨てることが出来なかったら、私たち家族は全く違った形になっていたでしょう。もしかしたら、家族の形すら残っていなかったかもしれません。

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「その時」は取り戻すことが出来ません。将来、有り余るお金を手に入れることができても、今の1分を買い戻すことなど出来ないのです。

 

仕事を引退し老後を迎えれば、嫌でも自分の時間は増えることになります。しかし、その時に自分の隣に家族がいるとは限りません。かつて頼ってきた部下は自分の顔など覚えていないかもしれません。時間の使い方を間違えて、自分にとって本当に大切なものを失ってしまっては、何のための人生だったかと後悔するに違いありません。やり直しの利かない人生なのですから、その時その時の重みを感じながら生きることが、満たされた時間を過ごすことになるのではないでしょうか。

働くこと、生きること (1)

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働くことの理想と現実

学業を終えたら、働いて自立する。私はそのことに何の疑問も持たずに就職しました。それから約30年。もう定年が現実のものとしてすぐそこまで来ています。

 

これまで、折に触れ、働くことの意味を後付けでいろいろ考えてきましたが、どれも腹落ちするようなものではありませんでした。

 

会社は事業目的がはっきりしています。どのような会社も何等かの形で社会に貢献することが事業の目的になっています。中で働いている社員は共通の事業目的に様々な形で貢献することと引き換えに給料をもらっています。

 

しかし、もらった給料分の働きをしている社員はどのくらいいるのでしょうか。高い報酬に見合った活躍をしている役員はどれくらいいるのでしょうか。恐らく、一部の人間の活躍で会社は利益を上げ、大半の社員はそのおこぼれに与っているだけなのではないかと、私は思います。

 

かく言う私も、これまでの仕事を振り返ると、成功して利益貢献したプロジェクトと、立ち上げすら出来ず損失を招いてしまった事業もあり、トータルではトントン、もしかしたらマイナスかもしれません。また、一線を退いた元役員の世話係など、会社の事業とは関わりの無い仕事もしてきました。就職当初に思い描いていた社会人としての夢とは全く違った会社人生でした。

 

だからと言って、そのような過去に虚しさを覚えているわけではありません。仕事や人間関係で様々な経験をし、勉強になったことを上げればきりが無く、むしろ、自分を大きく育ててくれたことに感謝すらしています。何と言っても、この会社に入っていなければ、妻と出逢うことも無かったわけですから。

 

会社に抱いていた理想と働いて分かる現実の違い。若い頃はそのギャップに苛まれ、逃げ出したい衝動に駆られたこともありましたが、歳とともに、目の前の現実を受け止められるようになりました。それは現実に対する自分の無力さへの諦めではなく、達観に近い感覚でした。

 

会社は仕事をする場であって、それ以上でもそれ以下でも無いこと。上司や部下、同僚とも仕事と割り切って付き合うこと。情に流されないこと – どんなに会社に貢献し尽しても会社はあなたを同じように大切にしてくれるわけではありません。くれぐれも会社に骨を埋める覚悟など持つべきではありません。

 

ワーク・ライフのバランスの取り方

先日、妻の病気療養のために配置転換の希望を会社に出した話を記事に書きました。

 

lambamirstan.hatenablog.com

 

私は、仕事をセーブして家族のための時間を確保したかったのです。時間だけでなく、頭の中の「仕事のことを考える領域」を減らしたいと考えました。人事異動の季節を過ぎてしまっていたので、私の希望は宙に浮いたままとなっていましたが、このまま無為に時間が過ぎていくのを放っておくことも出来ず、私の直属の部下に少しずつ仕事の引継ぎを始めました。また、会社貸与の携帯電話を返却しました。これで少なくとも週末に社用メールの着信のために携帯電話が震えっ放しということは無くなります。

 

仕事とプライベート、どちらも疎かにしてはいけないと思いますが、どちらを取るか聞かれたらプライベートを選ぶべきです。悩む理由などありません。私のかつての部下に、父親が亡くなったその日に「残務整理」として出社した者がいましたが、タクシーに押し込んで無理やり帰らせたことがあります。仕事の穴など放っておけばいいのです。突然、一社員が休んでも、会社が傾くわけではありません。

 

家族のケアのために仕事をセーブしたい社員がいれば、そのように仕事をアレンジするのが会社の役割だと思います。人生のステージによって、育児、家族の看病、親の介護など、プライベートに時間を割かなければならないことが生じた時に、仕事とのバランスを本人に押しつけるべきでは無く、会社も積極的に仕事のできる環境づくりに関与することが、働き方の多様性につながるのだと考えます。

 

私は、自分がそうしたいからと言うわけでは無く、以前から部下には年間の大まかな休暇スケジュールを作らせています。部員同士、いつ休むかあらかじめ決めておいた方が仕事がしやすいことと、休暇前に周囲に気を遣う必要が無くなるからです。

 

依然として休暇を取得することにある種の「後ろめたさ」を感じている社員が少なからず存在するのは、上の人間がそういう風潮を払拭しないからです。土日祝日に加え、有給休暇を消化しても仕事が回るようにするのが上の人間の務めなのですから、ワークライフバランスの取り方について、自ら手本を示さなければ、部下はついてきません。

 

理想と現実は埋まらない

やりがいのある仕事を任せられ、プライベートにも配慮して仕事ができる、そんな環境で働ける人はまだまだ少ないと思います。ほとんどの人は、程度の差こそあれ、仕事と家庭の両立に苦しんでいるのでは無いでしょうか。しかし、どちらかを選ぶことを迷う理由はありません。人生の中心は自分、そして家庭なのですから。(続く)