親の期待
今まで義姉の口から吐かれた言葉をつなぎ合わせると、連れ合いと結婚して、三十歳前までに一男一女を儲け、自分は専業主婦としてパートで家計を助けながら子育てもこなしてきた - というのが自負なのでしょう。
結婚して子供を産み育てる - 義姉としてはそれが自然な“営み”であって、自分の子供たちもそうするのが自然だと考えていたのだと思います。
しかし、義姉の視点からすれば、子どもたちは“残念ながら”自分の期待とは違う人生を歩んでいます。甥と姪が二十代の頃には、身内が集まるたびに、孫の顔を早く見せてくれと冗談めかして言う義姉でしたが、やがてその顔から笑顔は消え、溜め息が混じり、そして、甥も姪も身内の集まりに顔を見せなくなりました。
義姉の子供たちへの勝手な期待は、懇願を経て失望に変わりました。
親が子どもに抱く期待とは何なのでしょうか。親自身が今の自分を幸せだと感じ、あるいは幸せだと信じ込んで、子どもにも同じような人生を歩んでほしいと願う思いなのかもしれません。逆に、親が今の自分に不満を感じ、自分が成しえなかったことを子どもに託したいという思いなのかもしれません。
いずれにせよ、子どもは親の追体験のための道具ではないので、親がどんなに良かれと思って行なったことだとしても、それが子どもに対しての押し付けであったなら、子どもとしては“勘弁してもらいたい”という気持ちになってしまいます。
平行線
姪と義姉に会っていた妻は、その日の夜遅くに帰宅しました。「話は平行線」というのは、話をする前から分かっていたことです。
姪がマンションを購入したことで、義姉は自分の娘が一生独身を貫く決断をしたものと考え、それを身勝手と詰ったそうです。そして、返す刀で妻に対して、かつて親の反対を押し切って独り暮らしを始めたことを蒸し返し、そのことも非難しました。
自分の姉が歳をとってさらに頭が固くなったと妻は嘆きますが、私はそれとは違う気がします。
妻は親からの干渉に息苦しさを覚えて独り暮らしを始めました。私も自分の行く末を自分以外の人間から指図されることを嫌って、親と決別する道を選びました。妻と私は、事情は異なるとはいえ、親から押し付けられたモノサシを受け入れることができなかった、すなわち、親の期待を裏切った子どもでした。
義姉は、自分がそうしてきたように、我が子にも同じ生き方をしてもらいたいと願っていただけなのです。そして、姪は親とは違う生き方を選んだだけなのです。そこに交点を見出せないのであれば、無理に折り合いをつける必要はないと私は思いました。
私の母は、今でも、当時私が家を出たことを間違っていたと言って譲りません。子どもの主張は、親からしてみればわがままで、親に対する不平・不満は取るに足らない愚痴でしかないのでしょう。私が母の考えを否定しないのは、時間を経て「そういう考えもある」と思えるようになったからで、母の言い分を肯定したわけではありません。親の言い分も子供からすれば愚痴でしかないのです。
娘の考え方を受け入れられなくとも、理解しようと努力する必要はあると思うのですが、門外漢の私が言うほどに義姉の心を動かすことは簡単なことではないのだと感じています。