和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

歳相応

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気がかりな健康寿命

50代半ばの私にとっては、健康はお金以上に大事なものです。健康でなければ働くことも出来ないのですから、文字どおり体は資本なわけです。

 

昨年、私の体調不良と妻の発病が一緒にやって来て、真っ先に気がかりになったのは、この先、夫婦で健康に過ごせる時間が、自分たちが思っていたよりも短いのではないかと言うことでした。

 

私の体調不良は倦怠感と排尿障害だったのですが、医師には過労から来るものと言われました。本人としては、過労に陥るような働き方はしていなかったつもりなのですが、しばらく休日出勤が重なっていたことや、働いている時間以上に精神的なストレスが高まっていたことは否めません。

 

若い頃なら“それぐらいのこと”がいつの間にか、無理の効かない年齢になったと言うことなのでしょう。自分はまだまだ若いと思っているうちに、年波は確実にやって来るものなのだと知りました。

 

医師から言われた“十分な睡眠”と“疲れを溜めない”ことに留意した結果、私は近年では一番良好な状態を維持しています。長い間ショートスリーパーだったので、睡眠時間を延ばすのは大変でしたが、ぐっすり眠る時間が増えるに従い、朝一番の深呼吸の気持ち良さや、日中の集中力が長く続くことを実感すると、やはり体をきちんと休めることは大切なのだと納得しています。

 

妻はまだ抗がん剤の投与が続いていますが、春先の手術の後から投与を開始した薬は、以前のものと違って副作用も比較的軽く、倦怠感を覚える日数も減ったことから、体を動かせる時間も増えました。

 

私は、大きな山場を越えたのではないかとホッとしている一方で、その山場の最中に感じたことは、夫婦の喫緊の課題として考えなければならないとも思っているところです。すなわち、健康寿命 ‐ 誰の手も煩わすこと無く、自分たちのやりたいことを楽しめる時間 ‐ をどれだけ延ばせるのかと言うことです。

 

歳を取った証拠

コロナ禍以前は、取引先との酒席は仕事の一部でした。たまに、“ご無沙汰しているから”と勝手な理由をつけて、かつてお世話になった方と懇親会を開くこともありましたが、数年ぶりに合う相手ともあれば、お互いの容姿の変化は無視出来ません。

 

その場では「お変わりありませんね」とか「お若いですね」などと社交辞令の言い合いで終わりになりますが、ひねくれ者の私としては、「若いですね」などと言われると、かえって自分の老化の進み具合を見透かされたように感じてしまいます。

 

自分自身、年々白髪やしわの数が増えているのが気になっているのですから、久しぶりの相手からすれば、本当は「老けたな」と思っているのだろうなと、つい穿った見方をしてしまいます。

 

いや、それは、相手もそう思っていることなのかもしれません。そもそも、お互いに歳を重ねて心身の衰えを感じているからこそ、若さを保っていることが誉め言葉になるのだと思っているわけです。

 

私としては、誰かと若さ自慢をするつもりは毛頭ありませんが、健康でありたいと言う本質的な欲求の他に、見た目も若く保ちたいと言うささやかな欲望があることは認めなければなりません。

 

歳相応

日頃、服装には頓着しない私ですが、娘たちからは、私が若作りしているように見えるらしいのです。それは単に私の物持ちが良いだけで、数年前に買った服でも着続けていただけなのですが、娘たちから見ると、私の年齢に似合わないのだそうです。

 

娘たちから“ダメ出し”をされた服を処分して、外出用の服を調達しようと思ったところ、下の娘が私の買い物についていくと言います。彼女曰く、父親には歳相応の格好をしてもらいたいとのこと。私が思っている歳相応と娘から見た歳相応。どんな違いがあるのか、怖くもあり楽しみでもあります。

 

人生の下り坂を逆行することは無理ですが、私は出来る限りの抵抗をしてきました。もっとも、日々鍛錬を欠かさないプロのスポーツ選手でさえ、年齢的な衰えには勝てずに引退していくのですから、私の抵抗などたかが知れています。見た目も中身も若い人達と張り合おうなどと考えない方が良いのでしょう。

 

健康な体を維持することは大事ですが、それも歳相応に加減が必要なのだと思います。