和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

当たり前の有難み

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日々淡々と

ここ最近の年末年始は、家族4人で私の母親の家で過ごすことにしていました。母も毎年孫たちの顔を見るのを楽しみにしていたのですが、この新年は残念ながらそれが叶いませんでした。それでも、元日に母に電話をすると、受話器の向こう側からは思っていたよりも張りのある声が聞こえてきました。顔は見えませんが、母が元気そうに暮らしているのであれば、まずは一安心です。

 

幸いにして、我が家が無事に新年を迎えられたことは、このご時世にあって幸いなことと思っています。

 

昨年の今頃は、「今年はあれをしよう」とか「あそこに旅行に行こう」などあれこれ計画を考えていました。まさか、一年後にこのような状況に身をおくことなど想像できませんでしたが、「新しい生活様式」がすでに新しくなくなり、非日常であった不自由な生活が日常となった今、この生き方を普通のこととして受け入れるしかありません。

 

新しい生活様式による不自由さは否定しませんが、それを、「何かを諦めること」、「何かを失うこと」と捉えれば、どこか損をした気分になってしまいます。それよりも、自分を取り囲む環境をあるがままに受け止め、淡々と過ごすことができれば、足るを知ることを実感できるのだと思います。

 

幸せのハードル

これまで、幸せについていくつか記事を書いてきました。一言で言えば、幸せは自分に内在するものであると言うこと。誰かが自分に幸せを分けてくれるわけでも無く、自分が誰かを幸せにできるものでもありません。幸せだと感じることは、主観の話であって、誰かに幸せにしてもらうと言うものでは無く、「誰々よりも自分の方が幸せだ」と、周囲と比較して実感するようなものでもありません。

 

「幸せになりたい」、「愛する人を幸せにしてあげたい」と思っていても、どうすれば幸せになれるのかと突き詰めて考えた時、その先にあるものが実は幸せとは無関係なものだと思えることもあります。有り余るほどのお金や時間を手に入れられたとしても、それらが自らの不安を解消するための道具とはなり得ても、幸せ得るためのものとはなり得ません。

 

昨年から続くコロナ禍は、「ただの風邪」と意に介さない人々がいる一方で、私のように中高年の世代や、家族の中に高齢者や病気療養中の者がいる人々にとっては脅威です。そのような中で、先に述べた通り、これまで家族の中から感染者が出なかったことは、私たち家族にとっては幸いなことであり、私にとっても、今も家族と暮らしていられる、この状況を幸せだと感じても良いのではないかと思うのです。

 

私の幸せのハードルはとても低く、「そんなのは当たり前のことであって、幸せでも何でもない」と言われるかもしれません。しかし、多くの人々が大変な思いをされて、不安を抱きながら生活している中で、こうして生きていられること、不安を感じつつも生きていられることに感謝することができる、まさにこの状況を幸せだと感じられること自体が、私にとっての幸せなのです。

 

普通に生きることへの感謝

お金や時間があっても解消できない不安や恐れ。昨年は、私にとって、それは自分の死であり、家族の死なのだと言うことを実感した一年でした。

 

家族4人が毎日顔を合わせて、とても平凡な生活を繰り返している、そんな情景が当たり前となればなるほど、その当たり前が目の前から消えて無くなった時の喪失感は大きくて重いものになるのだと考えるようになりました。

 

新年の計を家族で話すことは、三が日の楽しみでもあったのですが、この正月は、私も他の家族も、どこに行きたいとか、あれをしたいと言うことを言い出しません。そんな話ができる、かつての当たり前だった日常の生活を取り戻すことが出来れば良いのでしょうが、その願いはどことなく空虚なことに思われ、家族の誰も口に出さないのでしょう。

 

“かつての当たり前”を諦めたわけではありません。しかし、目の前の食卓を囲んで、他愛の無い会話を楽しむ家族がいるだけで安心でき、それに感謝している自分がいることを知ると、私にとっての幸せは、遠くにあって高望みするようなものではなく、手の届くとても身近なところにあったのだと分かりました。

 

それと同時に、普通に生きていられること、目の前の当たり前に対する感謝の念を持ち続けることの大切さを忘れないようにしなければならないと思うのでした。