和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

腹八分目

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ほどほどで満たされる

腹八分目 - 満腹感を覚える一歩前で止めておくのが医者要らずの秘訣なのでしょうが、若い頃の私はそれが出来ていませんでした。

 

二十代半ばまでは、どんなに食べようと飲もうと具合が悪くなることはほとんど無かったのですが、その後、高尿酸血症 - 痛風予備軍 – と診断されてからは、お医者さんの忠告もあり食事を気にするようになりました。

 

とは言っても、食習慣を急に改めることは難しいものです。早食いと“腹十分目”の喜びを自重することは、私にとっては人生の楽しみを一つ失うようなものでした。私がようやく真剣に食事の摂り方を改善しようと考えるようになったのは、三十代に差し掛かり、痛風の発作に見舞われてからでした。

 

普段の食事から炭水化物と脂質を減らし水分を多く摂ることを心がける生活に変えてから、半年、一年と過ぎて行くと、体質が改善されて行くことが実感できるようになりました。そして、体質の変化は食べ物の嗜好にも影響を及ぼします。

 

もちろん、加齢による影響もあったのでしょうが、私の場合、脂っこいものを受け付けなくなりました。揚げ物大好き人間だった私でしたが、油の匂いが苦手になり、自然と胃もたれしない食べ物が好みになりました。

 

かつて私の人生の楽しみだった暴飲暴食。自制した食生活でその楽しみを失ったはずですが、あの頃の習慣を取り戻したいとは思いません。むしろ、痛風を発症せずに食生活の見直しを行なわないで歳を重ねていたら、もっと深刻な疾病を患っていたかもしれないのですから、早く気付いて正解だったと考えています。

 

今、私の胃袋は七分目から八分目で満足できるようになっていますが、意識してストイックな食生活を目指して来たわけではありません。体にとってちょうど良い頃合いが分かったのだと思います。胃袋がはち切れるまで食べ物を詰め込まなくても幸せな気分は味わえるものです。

 

小さな感謝の積み重ね

食欲もさることながら、ここ数年の私は“欲”から遠ざかった生活を送っています。それは、人生の本質を見抜いたとか崇高な境地に到達したなどと言うことでは決してありません。日常の取るに足らないことに小さな有難みを見つけられるようになったからだと思うのです。

 

前回の記事で触れた通り、ここ数日の私は精神的にはあまり良い状態とは言えません。何か特定の理由があるわけでは無いのですが、気持ちのチューニングが微妙にずれているような感覚が続いています。

lambamirstan.hatenablog.com

 

それでも、私の身の回りは有難いことだらけです。今の季節、朝目を覚ました時の布団の中でぬくぬくしているひと時。熱々の塩おにぎりを頬張った時の口に広がる塩味と甘み。湯船に浸かっている時の心地良さ。それだけで幸せだと思ってしまうのは、私が単純な人間だからなのですが、それなら単純な人間であり続けたいと思います。足りないことを嘆くよりも、足りているところに有難みを感じる方が楽しく過ごせます。

 

有難みを感じられる些細なことひとつひとつに感謝を重ねて行くと、心は穏やかな状態を保てます。自分の手の届く範囲にある有難いことを拾い集めて行くと、自分が案外満たされていることに気がつきます。

 

欲望のコップ

自分に足りていないものを得ようと努力するのは素敵なことですが、誰かが持っているものが自分に足りていないものだと勘違いしてしまうと、欲望のスパイラルから抜け出せなくなってしまいます。

 

欲しいものをひとつ手に入れると、また次の欲しいものが現れる – 無いものをねだり続け、足りている誰かを妬んでいては、満たされる時はやって来ません。

 

「せめて人並みの生活を手に入れたい」 - “人並み”とは何でしょうか。収入、学歴、職業。様々なカテゴリーの人並みを勝手に決めていませんか。そもそも、人並みであることが“満たされること”の必要最低限の条件なのかと言うと、そんなことはありません。

 

自分に持っていないものを持っている誰かが本当に満たされていると感じているかどうかは本人にしか分かりません。あるいは、自分が欲しいと思い続けて来たものを全て手に入れたとしても、それで満足が得られる保証はありません。

 

コップの水理論に通じるのでしょうが、欲望のコップが大きくなれば、どんなに一生懸命水を注いでも満たされることは無く、「まだ足りない」と焦ったり不満を抱えたりしながら過ごすことになります。欲求不満は、実は満たされていることに気がついていないだけなのかもしれないのです。

 

足るを知ることは、「この程度が身の丈に合っている」とか「自分はせいぜいこの程度の人間なのだ」と、叶わない望みへの思いを断ち切ることでは決してなく、自分を取り巻くものの有難みに感謝することで、自分が満たされていると知ることなのだと思います。