和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

涙腺の緩くなった話

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追想のBGM

若い頃に夢中になった音楽や文学はいくつになっても愛おしいものです。

 

音楽を聴くと言えば、私が10代の頃はまだレコードの時代でした。レコードを買い漁ったのは、中学から高校にかけてだったのですが、その時の流行りの曲よりもむしろ70年代の洋楽アーティストが一番多かったのは、勉強を言い訳に聞き入っていた深夜ラジオの影響でした。記憶の中の学生時代の情景と楽曲の時代がマッチしませんが、自分にとって想い出のヒットコレクションは70年代の曲で埋め尽くされています。

 

今でも当時好きだった曲を耳にすると、胸の奥が熱くなるような懐かしさが去来しますが、その感覚は、20代や30代に好んだ曲を聞いても味わえるものではありません。

 

思うに、10代半ばの、大人に脱皮するために煩悶していた時期に刷り込まれたものだからこそ、それらの曲たちは別格となり得たのでしょう。お気に入りの曲は、当時の無駄に感傷的な自分を思い出させてくれるタイムマシンなのです。

 

小説を読み漁ったのも同じ頃でした。大藪春彦さんやヘミングウェイさんに傾倒していたのは、私が現実では決して体験できないハードボイルドな世界に憧れを抱いていたからだと思います。その他、ジャンルを問わず、10代の頃は手当たり次第に小説を読み耽りましたが、やがて、就職した頃を境にフィクションの世界への興味は薄れてしまいました。読書を止めてしまったわけではありませんが、小説からは遠ざかってしまいました。空想の中で心を遊ばせる余裕が無くなってしまったからなのかもしれません。

 

今では枕元に転がっているのはオー・ヘンリーの短編集です。何度も読み返してボロボロになってしまい、わざわざ買い直した本ですが、それもすでにボロボロになっています。毎晩手にするわけでは無いので、本棚に戻せばいいものを、寝る時のお守り代わりにしています。

 

オー・ヘンリーのストーリーは、私にとっては、小さな子供のお気に入りの絵本と同じです。結末の分かっている話にも拘わらず何度も読み返したくなってしまうものです。恐らくそれは、本を手にする時の自分の心の持ち様によって、ユーモラスなものにも物悲しいものにも変化するストーリーのためなのでしょう。

 

緩んだ涙腺

ついこの間だった10代は、歳を重ねるごとに遠く離れて行き、その姿も霞んでしまいました。

 

最近、音楽にしても映画にしても、何かをきっかけに昔を思い出すたびに、決まって鼻の奥がツンと痛くなります。もしや、情緒不安定になっているのか、あるいは遅れて来たミドルエイジクライシスなのかとも考えましたが、そうでは無さそうです。

 

私がまだ親と同居していた頃、テレビのドラマを見て洟をすすっていた母は、歳を取ると涙もろくなるのは仕方の無いことだと言っていましたが、どうやら自分もそんな歳になったようです。

 

ストーリーの展開も登場人物のセリフも頭に入っている、そんな見飽きた映画でさえ、私の涙を誘います。それも、誰かの死や別れと言ったお涙頂戴の場面では無く、家族の他愛無いやり取りのシーンで不意に涙腺が緩むことがあります。

 

若い時にはそんなことはありませんでしたが、歳を取って涙もろくなるのは、感受性が再び豊かになったのかもしれません。あるいは、作品を通した追体験により、やり直しの効かない人生への潜在的な後悔の念が掻き立てられるからなのかもしれません。

 

楽天的な私は、見るもの聞くものに素直に感動できるようになったことは、この歳になって少しは人間らしさを取り戻すことができたのだと良い方向に捉えています。そう言えば、少し前までは何も感じなかったこんなテレビCMも、最近では私の涙の素になっています。

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