オリンピック開会式
昨晩(7月23日)、家族全員でオリンピックの開会式をテレビで見ました。私は素晴らしいパフォーマンスだったと感じました。パフォーマーを始め開会式に携わった人々が、この日のために費やしてきた時間と労力は想像以上のものだったのだと思います。さらに、コロナ禍の様々な制限下での準備に加えて、予想外のトラブルの発生が続きました。そのような苦難を乗り越えた開会式に、私は素直に拍手を送りたいと思いました。
しかし、その一方で、今、このタイミングでオリンピックを開催することへの疑問を拭い去れない自分がいます。心の底から喜べないオリンピックは、おそらく、私が生きている間、忘れられない記憶として残ることになるのでしょう。
コロナ禍と人々のつながり
どこかの誰かが、「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す」ことが、今回のオリンピックの大きな意義だと言い切りました。
その言葉は、ご自身の本心から出たものなのか、官僚が書いた原稿をそのまま読んだだけなのか。そんなことには興味はありません。しかし、コロナ禍の中で懸命に生きている人々に思いを馳せること - 少なくとも想像しようとする努力 – ができれば、あのような、空虚で上滑りな言葉は出てくるはずが無いと言うのが私の感想でした。
果たして、コロナ禍で、人々は、あるいは、人々の間の絆は分断されたのでしょうか。現代人にとって未曽有の脅威に直面したことで、かえって結束を強めた人々もいるはずです。医療に携わる方々が、肉体的・精神的にギリギリのところで頑張ってくれているのは、職業的な使命感もさることながら、その使命感を共有する仲間同士の強い絆があってこそだと思います。
妻や私は、期せずして、このコロナ禍の最中に医療関係の方々のお世話になることが多くなりましたが、病院を訪れればいつも、こちらの健康を気遣う言葉をもらいます。その励ましに私たちは元気づけられ、信頼してお任せしようと言う気持ちになります。コロナ禍だからこそ、周囲の人々に支えられていると言う思いは強くなり、何とかこの大変な時期を乗り切ろうと言う気持ちを強く持てているのです。
他方、コロナ禍で職を失ってしまい、何とか家族を養おうと大変な思いをされている人々も多いことでしょう。そして、それを支える家族もこの苦難の時期を乗り切ろうと懸命に生きているのだと思います。そのような人々の絆は分断されたのでしょうか。むしろ、家族のつながりは、危機に直面して一層強まったのではないでしょうか。
人々が分断されているわけではない
もちろん、コロナ禍で家族が離散してしまった人々もいることでしょう。では、そのような人々にとって今回のオリンピックはどのような意味があるのでしょうか。絆を取り戻すとはどういう意味なのでしょうか。
苦しんでいる人々の多くにとっては、コロナ禍前の普通の生活を取り戻すことの方が大事なのでは無いかと思います。「絆」と言う美しい言葉を大義名分にして行なう「平和の祭典」をどれだけの人々が望んでいるのでしょうか。
「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す」 何度その言葉を噛みしめようとしても、一見美しく響くその言葉は無味無臭で、何も響いてくるものがありません。
多くの人々が本当に望んでいるものを知ろうともしない、国のかじ取りを行なう集団と、市井の人々との間こそ分断されているのではないかと、私は思うのです。