和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

胡蝶の夢 (2)

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記憶装置の悪戯

私たちの脳は不思議なもので、大切な思い出として取っておきたいことは簡単に忘れてしまう一方で、嫌な思い出はなかなか忘れようとしないことがあります。一刻も早く忘れてしまいたい記憶が、不意に、しかも何度も脳裡に浮かび上がって来る、という経験をお持ちの方もいるでしょう。

 

自身の経験として、大切な思い出を忘れてしまい、嫌な思い出を払拭できないことがあり、私は、記憶の取捨選択は自らコントロールできるものでは無いと考えます。

 

思い出せないと諦めていた記憶が、何かの拍子に呼び戻される。そんな体験をしたことで、失われたままの家族との想い出もやがて取り戻すことが出来るだろう、そう私は確信しました。失った思い出を無理やり思い出そうと努力する必要は無く、ゆっくりと気長に待っていようと思っています。

 

結局、ある出来事を思い出す手助けをしてくれるのは、ふとしたきっかけであって、私がうんうん唸っていても始まらないことが良く分かったからです。大切なものをどこかに仕舞い忘れた時と同じです。探し物は探している最中は見つからず、後になって、自分がそこに置いたことすら覚えていないようなところから見つかります。思い出したい記憶も、それを切望している時には思い出せないのでしょう。記憶装置の悪戯に付き合うしかないのです。

 

自分の居場所を知ること

私が精神的な谷間を彷徨った挙句、会社を休んだことは以前記事に書いたとおりです。最初の数日間、私は燃え尽き症候群にも似た無気力状態に陥りました。その後、徐々に家事や育児をしたり、家族と散歩に出かけたりするようになるのですが、この2週間の休みで、心の安寧とはどう言うものかを改めて知るのでした。

 

それまでは、どこからともなくやって来る「イライラ感」との闘いの毎日でした。さすがに家族に当たり散らすようなことはしませんでしたが、何の前触れも無く指先や背筋から入り込んでくる「イライラ」と、視野狭窄のような状態に日々苦しんでいました。

 

仕事のことが頭から離れない自分と、突然見舞われる「イライラ感」や心のざわめきは妙にリアルで、皮膚の下にたくさんの小さな虫が這いずり回る感覚は、現実世界のそれでした。一方で、当時の私にとって、家族との団らんの時間は現実味に乏しく、ふわふわとした浮揚感に包まれている気がしていました。

 

もちろん、前者は錯覚で後者こそが現実世界なのですが、仕事以外の時間は自分にとっては夢か現か判断することも億劫になっていたのです。

 

しかし、長期休暇の間、家族と一日中一緒にいると、そこにも現実世界の自分がいることを知るようになります。その当時は、「家族と共に暮らす」姿こそが本来の自分なのだと思っていましたが、今になってその頃の自分を振り返ってみると、仕事と家族の二者択一に苦しんでいたのだと思います。「両方選ぶ」と言う選択肢が私の中には無かったのです。

 

職場にも家庭にも、自分の居場所があるはずです。どちらかを蔑ろにしてしまうと、自分の居場所を失ってしまうことになります。「仕事」と「家庭」。その中に置かれている自分は、どちらも本当の、受け入れるべき自分なのです。そこに優劣の関係はありません。

 

優劣の関係は無いとは言うものの、自分が掛け替えの無い存在だとすれば、誰かに代わりをお願いすることは不可能です。私は、家では夫であり父親です。私以外にその役割を担う者は存在しません。一方、会社では、私の代わりはいくらでもいます。私は“余人をもって代えられる”人間なのです。そう考えれば、優劣などで悩むまでも無く、いざと言う時に帰る場所がどこなのか結論は出ているのです。

 

夢と現実。仕事と家庭。どこに身を置いていようと自分は自分なのです。悶々と悩んでいるのも、楽しくウキウキした体験を味わってるのも、そこに自分がいるからです。それら全ての自分を受け入れることを良しと考えるようになって以来、私の皮下を走る虫はいなくなりました。

 

夢を見る蝶

自分が、人間になった夢を見ている一頭の蝶であったとしても、蝶のように飛び回る夢を見ている人間であったとしても、その時に抱いた感情は紛れも無く自分のものです。

 

日々時間に追われ、ゆっくりと思考を巡らすゆとりが無いからと言って、自分の中から湧き上がる感情を整理しておかないと、未消化の感情が澱のように蓄積し、やがて爆発することにもなりかねません。若い頃の私は、自分の感情の逃げ場を封じて生きてきました。自分が今何を思い、何に不満を感じ、どうしたいのか。そのように自分の精神状態をその時々に確認しておくだけでも、心のガス抜きになったであろうと知ったのは随分後になってからのことです。

 

気持ちの整理は後回しにせずに行なうべきだと思います。自分では納得していないことがあっても、無理に納得する必要はありません。負の感情は負の感情のままに受け止めても良いのだと思います。

 

静かな場所で目を閉じていると、様々な感情がその時の思い出と共に浮かんでは消えて行きます。良い思い出もあれば、思い出したくもない記憶が湧き上がってくることもありますが、振り払わずに直視することが大切です。その感情を抱いた自分を否定することは出来ないのですから。

 

湧き上がる感情を、あたかも自分が傍観者であるかのように見守ることで、心を整理することができるのだと考えます。