和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

人をつなぎ留めておくもの

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虚礼廃止

ひと昔前までは、年の瀬になると慌てて年賀状の準備に追われていたものです。仕事がどんなに忙しくても、三が日内に賀状が先方に届くように気をつけていました。

 

当時、私の勤め先では、社員の住所録が平然と配布されていた時代でした。年賀状を送る相手の宛先を簡単に調べることが出来ましたが、住所録がいわゆる“名簿屋”に売られるようになり、また、プライバシー保護の意識が高まるようになるとともに、社員住所録は廃止され、住所や連絡先は人事部の外には漏れることが無くなりました。それと時を同じくして、社員間での賀状のやり取りなどの“虚礼”を無くそうと言う動きから、社内で年賀状のやり取りをすることは無くなりました。

 

ただでさえ忙しない年末に、年賀状を書くことは私にとって憂鬱な行事でしたが、それが無くなったことで、心のモヤモヤのひとつが解消された気分でした。

 

そもそも、考えてみれば、社内の人間などは年明け早々に顔を合わせるわけです。そのような相手にわざわざ年賀状を送りつける必要など無いはずでしたが、若い頃の私は、“無礼な奴”と思われないようにせっせと年賀状を認めていたのでした。

 

海外駐在中は、現地での同僚や取引先との間でグリーティングカードのやり取りがありましたが、これも、2007年からの2度目の駐在の頃には、インターネットで一斉送信するのが主流になっていました。私は、折り込み広告を送るのと大して変わらないと思い、グリーティングカードの出状を次の年からは止めてしまいました。

 

結局、今でも年賀状のやり取りをしているのは、何年も会っていない、年賀状だけの付き合いとなっている方々のみです。古くからの知り合いは、年賀状だけでつながっている間柄の人が少なくありません。

 

それも今年は、ご本人がお亡くなりになったり、喪中だったりして、出状する賀状の枚数がめっきり減ってしまいました。娘たちに至っては、新年の挨拶はSNSで済ませてしまうようで、年賀状を出すことなど無いようです。若い人たちにとって年賀状を認める行為と言うのは、古い時代の遺物なのでしょう。

 

努力して築いた人脈

去る者は日々に疎し。私も学生時代の友人や入社当初に親しくしていた先輩がいましたが、卒業したり、部署が変わったりして、顔を合わせる頻度が低くなると、親しみの情が薄れていく気がします。

 

無理に維持しようと努めなければならない関係は、どこかぎこちなく気疲れしてしまいます。仕事上、私も取引先とは、密に連絡を取り合う必要があります。暑気払いや忘年会など、理由をつけて仕事を円滑に進めるために良好な関係を維持することに腐心します。

 

懇親会が立て込むシーズンともなると、膨れ上がった名刺ホルダーを捲り、当日会う相手の役職や風貌を思い出してから懇親会に臨むことがあります。加齢と共に記憶力が衰え始めた私にとって、人の名前と顔を一致させるのが日に日に億劫になってきました。

 

仕事のためのネットワーキングで得られた関係を終生維持することなどあろうはずも無く、良好な関係を維持する努力は、その場、あるいは仕事上の付き合いが続く限りにおいて、と言う条件がつきます。

 

折角お会いする相手に対して、私と一緒の時間を共有してもらえることを感謝する気持ちは今も昔も変わりません。ただ、そのひと時相手をもてなす気持ちを高めることが、若い時に比べて酷く大変になってきました。

 

かつて、自分の人脈の広さをひけらかす上司がいました。その上司が担当の役員と反りが合わずに転職することになったのですが、転職先では、本人が自慢していた人脈が全く役に立たず、しばらくして再度転職したと言う話が漏れ伝わってきました。

 

思うに、私自身が懇意にしてもらっている他社の方々も、決して私と言う人間を見て付き合いが続いているとは限らず、お互いに会社と言う看板を背負っているからこその付き合いなのです。お互いの打算の上に立った関係は、利用価値が無くなってしまえば、関係を維持するメリットなど何も無いのです。

 

膨らんだ名刺ホルダーの中に、私が会社を去ってもなお心から支援してくれる人は何人残っているでしょうか。私はそんなに人望のある人間ではないのです。

 

人をつなぎ留めておくもの

私は、学校の同窓会に顔を出したことがありません。会社では同期会や特定のプロジェクトの懇親会がありますが、この手の集まりも、会社と縁が切れれば顔を出すことも無くなるでしょう。

 

高校でも大学でも、そして会社でも、連絡を絶やさずにいる者がおりますが、それはあくまでも個々の関係として付き合いが続いているだけです。未だに自分でも分かりませんが、私は昔から自分のいた組織や集団を後々まで引き摺るのを煩わしく感じます。あまり自分の属性を増やしたくない、シンプルでありたいと言う思いがどこかにあるのかもしれません。

 

少なくとも、私は、自分にとっての役目が終われば、特定の組織につなぎ留められていることは無く、また、これまでも、個人に対してこちらから積極的に働きかけてまで関係を維持するようなことはありませんでしたし、これからも無いでしょう。

 

それは単に私が薄情者だからかもしれません。これから先のことを考えれば、知り合いや人脈は多いに越したことは無いのかもしれません。ただ、私自身、“いざと言う時のため”や“自分の利を得るため”にネットワークを維持することにどこか打算的な匂いを感じ、あえて人脈を広げる努力を行なってこなかったと言うのが正直なところです。

 

それでも、長くに亘ってつながっている方々とは、気の置けない居心地の良さをお互いに感じているからこそ、付き合いを維持できているのだと思います。たとえ年に一度会うか会わないかの、一見希薄な関係かもしれません。しかし、そのような押しつけがましくなく義務的でない緩い関係こそが、居心地の良さなのです。居心地の良さが、人とのつながりを維持するための土台なのでしょう。