衛生観念の変化
この記事を書いている時点で、政府による緊急事態宣言が当初の期限だった5月6日から1か月延長される見通しとなっています。在宅勤務、外出自粛をもうしばらく継続することとなりそうですが、私個人としては、失望や苛立ちという感情は無く、淡々と今の生活を当たり前のことと受け入れるようになっています。
今週、近所のドラッグストアの店頭に、久しぶりに使い捨てマスクが並びました。政府による布マスク配布で、一儲け企んでいたブローカーが買い占めていたマスクの投げ売りを始めたからだとの報道もあります。その真偽はともかく、これでようやく必要な時にマスクを買えるようになります。
ところで、本来は使い捨ての不織布マスクですが、洗えばかなりの回数使うことが可能です。我が家の下の娘は花粉症のため春先はマスクが欠かせませんが、以前よりマスクは洗って何回か使うように言って聞かせていました。店頭に並び始めたマスクではありますが、まだまだ割高。慌てて買い求める必要も無いでしょう。
さて、私は新型肺炎騒動の前までは予防のためにマスクを着用するということをしてきませんでした。しかし、今後は外出時のマスク着用を続けようと考えています。緊急事態宣言が解除され、騒動が沈静化したとしても、新型ウィルスが撲滅されない限り、いつ再流行するか分からないからです。
これまでも帰宅時の手洗い・うがいは人並にやってはいましたが、最近ではかなり念入りに行う習慣がつきました。また、むやみに指先で物に触れないようにもなりました。ATMの操作、コンビニの年齢確認などのタッチパネル、エレベーターのボタンなどは、指の関節を使います。
手や指先を清潔に保つことは害にはなりませんので、面倒ではありますが、これもやがて習慣になるものと思っています。
三密回避はいつまで続く?
「三密」と言う言葉も今年のキーワードです。ところで、外出自粛要請が解除されたとき、三密を避けることは可能なのでしょうか。とりわけ、大都市でのラッシュアワーの駅や電車内は“三密状態”です。時差出勤でどうにかなるようなものではありません。これを避けるには、やはり在宅勤務の継続以外に無いような気がします。せめて、出社を隔日や週1回などとして混雑の緩和を図らない限り、通勤時の三密回避とは行かないのではないかと思います。
また、繁華街も、外出自粛が緩和され商業施設の営業が再開されれば、人がどっと押し寄せることは想像に難くありません。スポーツジムや美術館・博物館など、レジャー施設もまた然りです。感染数が低空飛行したからと言って、気を緩めると瞬く間に感染再拡大となるでしょう。
それを避けるためには、施設への入場制限などにより、ソーシャル・ディスタンスを一定に保つ努力を継続しなければならなくなります。これも何となく窮屈な感じがしますが、「いつまで続ければいいのか」という話ではなく、騒動後の世界では当たり前のことになるでしょう。
オンライン飲み会がメイン
人との付き合い方も変わってきます。大人数のパーティー、冠婚葬祭の人の集まり、会社の歓送迎会。そのような大人数が集まる機会は大幅に減るでしょう。
思えば、最近では、冠婚葬祭も親族だけで行う人が増えています。三密回避が普通の社会的要求となれば、このような動きに拍車が掛かることになるでしょう。また、在宅勤務が普通になれば、会社の歓送迎会もわざわざ開かなくなります。それこそ、オンライン歓送迎会が主流になる日も近いと思います。
“密”を避けるためにオンラインで“集まる”ことが当たり前になると、外食産業も様変わりします。外での食事は、家族やごく親しい知人との会食が主となり、ソーシャル・ディスタンスを確保する観点から、「広めのスペースに少人数」というのが外食の中心的なスタイルになるように思います。そうなるとこれまで薄利多売で凌いできた大衆向けの店に代わって高級志向の店が増えるのではないでしょうか。
外食そのものが贅沢なものになれば、自ずと家での食事が増えますが、炊事を好まない家庭では、デリバリーへの依存が増えます。今、巷の料理店は、客足が減った分、テイクアウトの食事を提供することで生き延びようとしていますが、今後新たな顧客獲得のためにはデリバリーも真剣に考える必要があると思います。宅配の食事を提供する業者が増えれば、食事のバラエティーも豊かになるのではと期待します。
習慣とは恐ろしいもの
去年のゴールデンウィークは、妻と飛騨高山を旅行していました。そして、旅行を終えた直後には、すでに今年のゴールデンウィークの行き先も決めていました。あの頃、まさかゴールデンウィークを丸々自宅で過ごそうとは思いもしませんでした。
4月上旬から完全在宅勤務となり、約1か月が経過しました。最初は職場と自宅が一緒であることに違和感を抱きました。外出自粛も窮屈でストレスを感じていました。しかし、今現在、そのような生活に慣れてしまった自分がいます。違和感やストレスも日々晒されることによって当たり前のこととなります。
今では、起床後に、自分の担当の家事を済ませ、仕事に取り掛かり、夕方には晩御飯の支度にとりかかる、という一連の作業が自然に流れるように行えます。習慣とは恐ろしいものです。