和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

正月気分

年賀状整理

これまでの正月と言えば、知人から届いた年賀状を整理するのも一仕事でしたが、それも今は昔。会社関係者との年賀状のやりとりは、海外駐在を機に終わりにしました。帰国後は、会社自体が虚礼廃止の下、同僚や上司との間の年賀状のやり取りを終わりにするよう励行したおかげもあり、受け取る年賀状の数も大幅に減りました。

 

今の家に引っ越した六年前には、年賀状のやり取りだけの関係になった相手にも引っ越しの挨拶状を出したものの、その年の終わりに、私はほとんど相手先に年賀状仕舞いの挨拶状を送りました。いまでは、高齢でメールアドレスを持たない相手方には年賀状を出しますが、それも片手で数えるほどです。

 

以前なら、十二月ともなれば、妻と私は年賀状書きで忙しい週末を送っていました。私が年賀状仕舞いをするようになっても、妻は年に一度きりなのだからと、自分の分は一枚一枚年賀状を書いていました。

 

そんな妻も、昨年末には年賀状仕舞いをすると“宣言”しました。聞くと、同年代の知人からも年賀状を止める連絡が来るようになったことや、親しい友人との間ではSNSでのやり取りが主流になっていることが理由のようでした。

 

恐らく、あと数年もしないうちに、妻も私も年賀はがきのやり取りをする相手がいなくなることでしょう。年賀状仕舞いをすると言った妻も、「手間が減った」と喜んでいるわけでは無く、少し寂しげな表情を浮かべていましたが、これも時代の流れです。

 

正月気分

三が日もあっという間に過ぎました。私の勤め先は本日が仕事始めでした。以前は、仕事始めの日には出社することが当然との空気がありました。社長の年始挨拶の後、賀詞交歓会で酒が振舞われ、その日はそれで業務終了 – そんな時代もありましたが、いつの頃からか、賀詞交歓会は無くなり、社長の挨拶の後は通常業務となり、そして、社長の挨拶もビデオメッセージとなり、仕事始めは文字通り朝から普通に仕事をする日になりました。

 

思えば、ほんの数年前まで、年の暮れは休みの待ち遠しさと、翌年に持ち越してしまう仕事に対する気がかりが入り混じった、正月気分にどっぷりと浸ることの出来ない気持ちを抱えていました。

 

ある年には、年明け早々に入札期限を迎える案件の準備で、冬休み返上で働いたこともありました。妻と娘たちだけで実家に里帰りさせた正月もありました。

 

自分で選んだ仕事とは言え、家族との時間を後回しにすることを心の底で納得出来ていない自分がいました。それは、年末年始に限ったことではありませんでしたが、とりわけ、家族が楽しみにしていた冬休みに父親不在ともなると、こちらは申し訳なさを、妻はイライラを、そして娘たちは寂しさを感じたまま、ギクシャクした感情を持ち越して新年を迎えることとなります。

 

その頃の、夫婦間で一触即発の危険な年明けと比べると、昨年も今年も平和な正月を過ごすことが出来ました。また、新型コロナのお陰と言っては語弊がありますが、この三年間は、親族で一同に会することもなくなったため、かつての年末年始のような忙しなさからも解放された、親子水入らずの時間を持てました。

 

この歳になり、ようやくゆっくりと正月気分を味わうことが出来るようになったのは、喜ばしいことに違いは無いのですが、娘たちがもっと小さいうちから、こんな風にのんびりとした年末年始を過ごすことが出来たならと思うと、これまでもったいない時間の使い方をしたものだと、胸にチクリとかすかな痛みを覚えます。

大晦日

在宅勤務での仕事が主になってからの二年余りで、家の中の様子が大きく変わりました。それまで、共働きで平日は留守にしていることがほとんどだった我が家は「片付かない家」でした。

 

それが、妻の闘病生活で様子が一変しました。妻にとっては我が家が病室でした。新型コロナの蔓延が拡大している最中でもあったことから、お医者さんからは、免疫力の弱っている妻に感染させないように注意することが大切だと言われました。

 

さすがに家を無菌室のようには出来ませんが、可能な限り家の中を清潔に保つにはどうしたら良いか自分なりに考えた結果、念入りに掃除することと、手に触れる場所を徹底的に消毒することにしました。今では、家中を神経質に消毒して回ることしませんが、それでも毎日の掃除を欠かさなくなりました。

 

妻にとっても、私や娘たちにとっても、一番長く過ごすこととなった我が家を如何に心地いい場所にするか ‐ それを考えると自ずと掃除の手を抜くことが出来なくなりました。

 

毎日、仕事を始める前に掃除機掛けと拭き掃除、週末の窓ふきと玄関周りの掃き掃除など、習慣化すれば苦では無く、逆に掃除しないと何となく居心地の悪さを感じるようになりました。

 

良いことがあっても悪いことがあっても、泣いても笑っても、一日の終わりを迎えるのは我が家なのですから、その最後の場所がきれいに片付いているのは悪いものではありません。

 

晦日の今日も、普段通りに掃除を終えて一日が始まりました。今年最後の日を心静かに迎えることが出来そうなのは、私たち家族にとってはささやかでありながら最高の喜びでもあります。

当てに出来ないもの

当てに出来ないもの

バブル崩壊後に就職した私は、入社以来これまで、景気の良さを実感したことがありません。いつかまた景気は戻ると期待しながら、気がつけば定年まで片手で数えられる年齢に達してしまいました。

 

過去に何度か触れましたが、結婚当初に初めて作った家計のキャッシュフロー表は、その後何度か見直しを行なったものの、全て“下方修正”でした。収入は思いどおりには上がらず、ボーナスももらえるだけ有難い、といった感じでした。

 

私が幹部社員になってからのボーナスは、記憶違いでなければ、毎度、「幹部社員減額」として一割から二割減らされました。もらえるだけ有難いとは言え、私の頭の中では、ボーナスなどいつ支給されなくなるか分からない、当てにしてはいけないものになっていました。

 

もっとも、それよりもずっと前から、妻も私も会社の給料が右肩上がりに増えることを諦めていました。

 

定年退職までに得られる収入の合計は、会社員であれば高が知れています。副収入を稼ぐ道や投資で資産を増やす選択肢もありましたが、私たちはそれらを選びませんでした。

 

当てに出来ないものを期待して計画を立てても、結局は画餅に終わってしまいます。他方、出て行くお金は自分たちの責任で管理することが出来ます。

 

共同生活でのお金の使い道を決めるために、お互いの価値観のすり合わせに思いのほか苦労しました。お金の話は兎角生々しく、バラ色の(?)新婚生活から現実世界に引き戻してしまうものですが、それでも、妻はどのように感じていたかはともかく、私としては、結婚当初からお金の話を抵抗なく出来るようにしておいたのは良かったと思います。

 

身の丈

思うに、私は自分の父親の羽振りの良かった時と、小ぢんまりとした終の棲家で晩年を送った時の両方を見て来て、無意識に自分の将来と重ね合わせていたのでしょう。

 

お金に余裕のある時の生活レベルを急に下げることが出来ないのは、自分の両親を見て来てよく分かりました。一度味わった贅沢が贅沢で無くなると、自分の懐事情に合わせて財布の紐を締めるのに大きな抵抗を感じるようです。

 

最低限期待出来る収入の中で、自分たちの身の丈に合った生活を送る – 結婚生活がそれによって窮屈で息が詰まることはありませんでした。自分たちの「足るを知る」こと、得られる収入の使い道にメリハリをつけることで満足感を得る術を自然と学んだのだと思います。