和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

再雇用嘱託の退職

使い勝手

来週から新年度というタイミングで三月の人事異動の追加発令が公表されました。追加されたのは両手で余るほどの自己都合退職者。その半分は定年退職後に再雇用された嘱託社員でした。

六十歳の定年後、本人が希望すれば五年間は嘱託として働ける制度にも拘わらず、年度末の区切りで複数名が自己都合で退職するというのは、私は今まで聞いたことがありませんでした。

ただ、それは私にとって大きな驚きではありません。

数年前から採算性の悪い地方の事業所を統廃合する計画が立てられており、それに伴い地元での新卒採用を中止していました。それ以降、人手不足は本社からの転勤者で回していましたが、今のご時世、単身赴任を嫌う社員は少なくありません。そのしわ寄せを被るようになったのは、独身の社員や再雇用嘱託の社員でした。現場においては、とりわけ経験豊富な再雇用嘱託の社員は使い勝手が良く、そのニーズが高まりました。

 

悪平等

今、会社は単身赴任者へのインセンティブとして手当の復活を検討しています。会社が、「属人的な手当を廃止し」、「給与の平準化を図る」として、単身赴任の二重生活による負担を軽減するための「単身赴任手当」を廃止したのはほんの数年前のことです。

当時、社員の中からも反対の声が多かったにも拘わらず、それを押し切って強行した給与制度の改定でした。お金が全てではなくとも、昨今、単身赴任を忌避する社員が増えているのは制度の改悪と無関係とは言えないような気がします。

“社員は勤務地によって給与に差をつけない”というのは一見もっともらしく聞こえますが、勤務地ごとのハードシップや家族と離れ離れに暮らすことの経済的・精神的な負担を無視すれば、それは処遇の平準化ではなく悪平等になってしまいます。

会社は、転勤や異動に伴う苦労は人事考課に反映すると言いますが、社員の側からすれば、評価の差は見えません。また、今の制度では、会社員としての終盤にどんなに苦労をしても、再雇用嘱託の給与に反映されることはありません。

現役時代より給与が下がった上に、会社員としての最後の数年間、住み慣れない土地で過ごすのは耐えられない社員もいることでしょう。

新年度を迎える直前になって自己都合退職者を公表したのは、会社にとって都合の悪い事実だからなのかもしれません。

春先

春先のこの時期、私にはあまり良い思い出がありません。数年前の今頃、数十年前の今頃、自分が何をしていたか頭を過ることがありますが、それらは大概不快な記憶です。失恋の痛手、受験の失敗、メンタル不調 - 。同じ時期の良い思い出を探そうと思えばいくらでも見つかるのですが、悪い記憶が勝手に割り込んできて、明るい情景を押しのけてしまいます。

しかし、それは私の個人的な心持ちの問題で、妻に打ち明けるにはばかばかしく、ましてや専門家に相談するようなものでもあるまいと思い、静かに悩み続けてきました。

個人的でばかばかしい悩みは、ある時期を境にとても軽い、取るに足らないものに変わります。歳を重ねてストレス耐性が高くなったのではなく、“気づき”によるものだと思います。

“結果”は後から変えることはできません。受け入れるしかありません。そんな当たり前のことを私はようやく“受け入れる”ことができるようになりました。

思うに、私の悩みは“あるべき自分の姿”とのギャップを埋められなかっただけの話でした。理想と現実。手に入れられなかった理想の結果は過去に置き去りにされたまま、もう一度のチャンスが訪れることはありませんでした。変えられない現実に私は苦しんでいました。

翻って、私は今の自分に不満なのかといえば、そうではありませんでした。勝手に思い描いていた“あるべき自分”とは違うけれども、今の自分を憎んでいるわけではなく、むしろ自分や自分を支えてくれている家族を好きでいられるのならそれで十分ではないか ‐ ある日の帰宅途中の通勤電車の中、何の前触れもなく舞い降りてきた“気づき”で私は救われたような気になりました。

今でも過去の嫌な思いが不意に蘇ることがありますが、気持ちが沈むようなことはありません。不快な経験も心弾む経験も全て今の自分の一部として受け入れられるようになりました。

母の長話

年に一回、高齢の母親に認知症の検査を受けさせるようにしています。

本人は、「ボケ老人扱いするな」と言うこともあれば、「いよいよボケてきたのかもしれない」と弱音を吐くこともあります。自分の都合の悪い時はボケたふりをしているのかもしれません。

今回もお医者さんの見立ては「異常なし」。息子としては一安心ですが、母の四人の姉のうち、すでに鬼籍に入っている二人は、ともに、晩年は認知症を患い、自分が何者なのかも分からずにこの世を去りました。

母が私のことを息子だと分かっているうちに看取ることができれば – などと思うのは不謹慎なのは分かっています。ただ、伯母たちの最期を知る人間からすると、長く生きる分幸せが増えるものではないのだと考えます。

認知症ではないと診断されたとはいえ、ここ最近の母の感情の揺らぎは、私にとって少々気がかりになっています。

テレビで若い女性が被害にあった事件を見れば、すぐに我が家に電話がかかってきます。年頃の孫娘たちに何かあったら生きていけない、帰りが遅い時は私が駅まで迎えに行くように、変な男に騙されないように親が見守らなければいけない – そんな話が延々と続きます。

私は老母の説教に辟易してしまいますが、妻はそんな母の長電話に、私たち家族のことを心配してくれているのだからありがたく思うようにと言います。

母は自分の心身の衰えから、自分が先に逝くことをより強く感じるようになっているのかもしれません。残される息子や孫たちへの心配は、その思いの強さの表れなのだとすれば、長話を邪険にせずに“ありがたいこと”として受け止めなければならないのでしょう。