和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

無駄な贅沢

無駄な贅沢

前回の記事で趣味の読書について触れましたが、もう一つ、数十年ぶりに再開したギターの練習が私の趣味“候補”になっています。

 

中学生でギターを始めた頃、月刊誌の「明星」や「平凡」の付録の“ソングブック”でコードを覚えたのを思い出しました。当時はちょっとしたギターブームでクラスの半分くらいは“ギタリスト”だったのではないかと思います。

 

私はやがてブルースの世界に傾倒しながら、ブームが去った後も細々とギターを続けていましたが、大学に入ってからは、ギターケースは部屋の片隅に置かれたままとなっていました。

 

私のギターは三十年あまりもの間ケースの中に閉じ込められていたものですから、フレットは緑青が浮き出て、ボディも埃なのかカビなのか分からないものに覆われていました。それを半日がかりできれいにして新しい弦に張り替えると、思いのほか良い音がしました。もう中年の域に達しているギターでしたが、きちんと手入れすればまだまだ現役で使えそうでした。

 

どうせ音楽の趣味を再開するのなら、もう一度基礎からやり直そうと思った私は、ちょっとした気まぐれで音楽理論から勉強することにしました。

 

〆切のある仕事でも無く、目標があるわけでも無い、ただ浸りたいだけの趣味です。私は、ほぼ毎晩、布団に入る前の十五分から三十分ほどの時間に理論書を読み進め、ワークブックの問題を解くことにしました。

 

これが家族にはあまり評判が良くありません。キッチンの脇の、妻の書斎代わりのカウンターが私の勉強机と化したのですが、少しやってはすぐに床に就くことを繰り返す私に、下の娘は「見ていてイライラする」と一言。

 

家族の中で一番せっかちな彼女の目には、遅々として進まない私の“作業”は手慰みに毛の生えたようなものにしか映らないのでしょう。

 

しかし、私の“勉強は”着実に進んでいます。しかも、一日ほんのわずかな量しか進めないことで、かえって飽きることなく続けられています。

 

何の見返りもありませんが、自分がやりたいことに没頭出来るのは、それが無駄であっても – 無駄だからこそ - 贅沢なひとときなのだと思います。

 

ピアニカの復活

かつて、我が家には、上の娘が小さい頃に義姉宅から譲り受けた電子ピアノがありました。姪が使っていたものなので、うちで引き取った時にはすでに二十年近く経った年代ものでした。

 

そのピアノがお気に入りになった上の娘は、六年間ピアノ教室にも通いました。私の海外駐在のため、娘のピアノレッスンはそこで終わってしまいましたが、それでも娘は暇さえあればピアノを弾いていたような気がします。

 

我が家の一員のようなピアノも、いくつかの鍵盤は音が出なくなり、引っ越しの際の解体と組み立てを繰り返すうちに躯体がガタガタになったため、今の家に引っ越す際に処分してしまいました。娘は自分でお金を貯めて新しいものを買うと言っていましたが、まだその日は来ません。

 

他方、私は、音楽理論の勉強を進め、和音の構成を理解するのに鍵盤楽器の必要性を感じるようになりました。携帯電話でピアノのアプリをダウンロードしたのですが、使い勝手があまり良くありません。

 

中古品で構わないのでキーボードが欲しいと家族に説明するも、妻も娘たちも、私のお勉強が長続きすることなど信じてくれません。

 

しばらく家族の理解を得るための説得工作を続けていた私に、上の娘が小学生の時に使っていたピアニカを譲ってくれました。娘の気持ちは嬉しかったものの、自分の期待とは違うものをプレゼントされた時のがっかり感を覚えましたが、所詮は暇つぶしのお供ですから、ここで文句を言うのは大人気ないと自分を納得させました。

 

そんなピアニカですが、場所を取らず持ち運びも便利なので勉強道具としては打って付けでした。ただ、夜ごとキッチンから、ピー、プーと得たいの知れない音が聞こえてくるのを家族がどう思っているかは分かりません。

暇つぶしと趣味(2)

苦行

子どもの頃、親が私に読書の大切さを説いたのは、それが語彙力をつける近道だからと言う理由でした。知らない漢字や言葉をその都度調べて覚えるのは地道な作業です。しかし、自分の読みたい本の中身を理解するための努力なら苦にならず、その点、親の言ったことは正しかったのだと思います。

 

私は、同じように読書の大切さを娘たちには何度か伝えようと試みましたが、なかなか響きませんでした。

 

特に、下の娘は、中学三年の時に運良く帰国子女枠で中高一貫校に滑り込めたものの、国語が全くダメでした。小学生レベルの本から読書をさせようとしましたが、本人はそれも受け付けず。担任の先生と相談して、読むのがダメなら聴くだけでも日本語に馴染むようにと、朗読のCDを聴くように勧められました。

 

娘はそれから通学の電車の中で朗読CDを聴く毎日を送ったようですが、朗読を聞き流すだけでは“読み書き”の力は備わりません。結局、最近になって、彼女は自分の日本語力の足りなさをようやく自覚して、漢字検定の問題と格闘しています。

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漢検問題に取り組んでいる娘は、内定先から入社日までに読むように勧められた書籍とも格闘していますが、同じ本を読むにしても、必要に迫られてページを繰るのは苦行以外の何物でもありません。

 

読書が大事だとあれほど言ったのに – おそらく、妻は娘にそう言いたくてたまらなかったと思いますが、今、一番後悔しているのは娘本人のはず。妻も私も一切口出しせずに娘を見守ることにしています。

 

現実逃避

おそらく、私の少年期から青年期は、ドラマティックな出来事とは無縁の面白味の無いものでしたが、様々な本を読み耽け、仮想世界で旅行や恋愛を経験し、誰かの身に降りかかったことを追体験しました。本は、現実の自分ではなし得ない多くのことを教えてくれました。

 

今振り返ると、学校の授業や受験勉強など、現実世界では常に何かに追い立てられる毎日を過ごしていた自分にとって、そこから逃避する手段が読書だったのだろうと、勝手に解釈しています。

 

それでも、当時の私は現実逃避したいと思えるだけの心のゆとりがあったのでしょう。ここ数年の“読書離れ”は、一言で言えば、余裕の無さが原因だったのだと思いますが、本を手にしなくなったことで、現実世界に縛られた私はしばらく窮屈な思いを強いられることになりました。

 

今、再び読書を楽しめるようになった私は、心のゆとりを取り戻せた気分です。あるいは、心のゆとりが生まれたからこそ、本を手にしたいと言う気持ちを呼び戻せたのかもしれません。

 

読書沼での暇つぶし

私の愛読書は、どれも読み古されて、古本屋でも引き取ってもらえないような代物ばかりです。“読書離れ”以前の頃には、「また同じ本を読んでいる」と妻から揶揄されたこともありましたが、確かに十数回も読み返した本があります。

 

愛読書が飽きないのは、読み手である私が歳と共に変わってきているからなのだと思います。小説の登場人物の年齢は変わらずに、読む回数を重ねるたびに私は歳を取っていきます。若い頃には共感出来た人物が、歳を取った私とっては嫌悪を抱く対象になっていることもあります。

 

自分が歳を重ねて、結婚し、家族が増え、様々な経験を積むことによって、本の中身は同じでも、受け止め方が全く違うものになります。

 

そういう意味で、繰り返し読む本は自分を映す鏡と言えそうです。登場人物のセリフも筋書きも結末も全て分かっていても、その時自分がどう感じるかを知りたくてページを捲っている手が止まらなくなります。

 

積読をひととおり消化した私は、愛読書の再読を始めたところです。読書沼にどっぷりと浸かる時間は私にとって良質な暇つぶしになりそうです。

暇つぶしと趣味(1)

積読解消

長続きしている趣味と言っても私の場合、ありきたり過ぎて、趣味と言えるのか暇つぶしなのか自分でもよく分からなくなることがあります。

 

時間が無ければ趣味に興じることは出来ないのか、あるいは時間を割いてでも没頭したくなるのが趣味なのか - 私にとっての趣味はオフの時間のガス抜きの役割が大きいので、ライフワークと呼ぶ域に達するものではありませんが、将来、完全にリタイアした後の生活に潤いを与えてくれるような趣味をひとつでもふたつでも持っておきたいと思っています。

 

最近、ようやく“積読”が解消されました。読まずに溜め込んできた本は、書店で気をそそられて買ったものの、時間が無いことを言い訳に本棚の前の“未読コーナー”で長い間埃を被っていました。

 

それら数十冊を数か月かけて読み終えましたが、またいつか読み返してみたいと思える本は残念ながらありませんでした。自分で選んだ“読みたい本”だったので、それぞれの本の内容に不満があるのとは違います。むしろ、楽しく読み進めた本がほとんどだったのですが、どこか、既視感ならぬ既読感のようなものを覚え、心に引っかかるものが無く、私の愛読書の仲間入りが出来ませんでした。

 

未読の本が無くなったところで本棚の整理をしました。今本棚にあるのは、これまでの幾多の整理の波を乗り越えて生き残ってきた本たちなので、簡単の手放せるものではありません。私の読書の成果が凝縮されているとも言えます。本棚の片づけはしたものの、処分する本はありませんでした。

 

するめ式読書

結局、最近かった“外れ”の本を古本屋で買い取ってもらいました。普段なら、そこでまた新しい本に手を伸ばすところですが、今回は控えることにしました。本を増やすなと家族から言われたのが理由のひとつで、もう一つ理由を挙げるとするなら、私が面白いと思うような本に出逢う機会が少なくなったことです。

 

単に私の感じ取る力が衰えたからなのかもしれませんが、擦り切れてボロボロになった愛読書をたまに読み返してみると、やはり愛読書だけあって、あっという間に心を読書の世界に持っていかれてしまいます。

 

思うに、良い本に出逢うと、それ以上の感動や衝撃を求めて次の本を探すようになりますが、次から次へと自分を満足させてくれるような本が現れるわけではありません。読書歴が長くなるほどに、自分にとっての愛読書を見つけることは難易度を増していくことになります。五十代半ばの私にとっては、新しい愛読書を見つけるのは砂金掘りのようなものなのでしょう。

 

自分の期待値を勝手に上げて、気に入った本が見つからないと文句を言っている私は、単なるわがままな読者でしかないのですが、しばらくは本棚にある愛読書の再読に時間を割こうと思っています。

 

不思議なもので、同じ本でも – しかも何度も読み返した本でも – その時の心の状態で内容の受け止め方は全く違ってきます。小説でも、自分が感情移入できる登場人物は、読むたびに変わることがあります。

 

お気に入りの本は、好きな楽曲と同様に、リピートして何度も読みたくなってしまうものです。噛めば噛むほどに味わいが増すようなものでしょうか。

 

本の場合、そんなスルメ式読書を続けても、その都度、立ち止まって文章やその行間を読み解こうとしたり、登場人物のセリフにツッコミを入れたりと、読者側の楽しみ方の自由度が高い気がします。だからこそ、読書は止められないのでしょう。(続く)