和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

理想の老後 (2)

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介護生活の予行演習

老後のお金の問題は切実ですが、妻と私にとって、より気がかりなことは健康問題の方です。もっと正確には介護問題と言うべきでしょう。

 

昨年、妻は乳がんになりました。私は一昨年来から諸々の体調不良に悩まされました。毎年人間ドックを受診し、健康に留意していても病気を完全に予防することは出来ません。病気に罹ったら、それを受け入れて治療に専念するしかありません。

 

病気や怪我に見舞われることそのものよりも、私たちが不安に感じていることは介護の問題です。夫婦のどちらかが介助を必要とした場合、あるいは、どちらかが先立った後に、残された方が身の回りの世話を必要とする場合のことです。

 

昨春、妻が手術をした後、私は約2か月間の介護休業に入りました。妻の自宅療養中は、娘たちの協力もあり、家事や介護は思いの他スムーズに出来ました。終わってみれば、介護休業は予想よりも充実していました。“充実”と言う言葉は介護にそぐわないかもしれませんが、夫婦や家族としてのつながりを一層強固するための時間を持てたと思っています。また、不謹慎かもしれませんが、私にとっては介護の予行演習にもなりました。

 

しかし、これがあと20年先の出来事だとすると、状況は違ったものになるかもしれません。介護者が疲弊して共倒れになることや、親の介護のために、独立した子供が大きな負担を被ることなど考えたくもありませんが、私たちの年代になると、益々夫婦のどちらかが被介護者となるリスクが高まるのは避けられません。

 

老々介護問題

老後の介護問題は不安の種ですが、今や自分たちの老後だけを心配していれば済むご時世では無くなってきました。私たちにとって、遠くない将来の“老々介護”も頭の痛い話です。

 

コロナ禍以前は、月に2回程度、私が母親の様子を見に行き、掃除や必要な買い出しを行なってきました。その後、私が行き来を自粛してからは、母には、買い物は宅配サービスを使うよう、掃除は出来る範囲でやるように言っていますが、かれこれ1年以上も顔を合わせていないので、家の中がどんな様子になっているのかは分からず不安を感じているところです。

 

私の勤め先の先輩も親の介護問題を抱えているひとりです。先輩は、退職後の悠々自適な生活を夢見て、40代に差し掛かった頃に、都心から遠く離れた地に家を買いました。子どもの無いご夫婦は、平日は都内の賃貸マンションで暮らし、週末や長い休みには、田舎暮らしを満喫していました。

 

その後、奥さんはマンション生活よりもあちらの暮らしの方が気に入り、先輩だけが行ったり来たりの通い婚となりました。そして、50歳を過ぎ、先輩は自由選択定年制度を使って退職し、奥さんと早めのリタイア生活を楽しもうと考えました。

 

ところが、その頃に奥さんの母親が病に倒れ、のんびりと田舎暮らしを楽しむどころでは無くなってしまいました。奥さんは、母親の介護と父親の身の回りの世話をするため、ほとんどの時間を実家で暮らすようになりました。

 

先輩としては、仕事から解放されて、夫婦水入らずの生活を楽しもうと思っていた矢先に、義理の両親の介護問題に直面しました。

 

先輩はまだ働いています。「早期退職宣言」から大分時間が過ぎていたので、そのことを尋ねた時に、先輩から義理のご両親の介護の話を聞かされ、私は身につまされる思いでした。

 

自分の面倒は誰が見る?

自分が介護される側に回ることはあまり考えたくありませんし、考えれば暗い気分になってしまいますが、目を逸らすわけには行かない問題であることに間違いありません。

 

妻と私は、今の家を建てる時点で、老後生活をある程度想定はしていました。娘たちが独立して、夫婦二人での生活になっても、身の回りのことは自分たちで出来るようにしておく – それが基本でした。

 

私たちは車を持たないので、家の立地条件は、最寄り駅への行き来や食料・日用品の買い物が徒歩圏内で行えること、足腰が少しばかり弱って来ても大丈夫なように周囲が平坦な土地であることを最優先にしました。

 

住居に関しても、完全なバリアフリーとまでは行きませんが、炊事や洗濯の動線は、将来的なことまで相当考えたつもりでした。

 

それでも、健康寿命を過ぎた後、余生をどのように暮らすのかについてはまだ模索の最中です。在宅介護サービスの活用や、介護施設への入居など、様々なオプションがあると思いますが、どれが私たちにとって最適なのか決めかねています。

 

「誰の世話にもなりたくない」と言うのは簡単ですが、いざ自分がその立場になれば、周りが放っておかないかもしれません。配偶者を含め自分の身内に負担をかけないための身の処し方、その答えを私はまだ持ち合わせていません。(続く)

理想の老後 (1)

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先送りできない問題

私は過去の記事で度々老後生活の話題に触れてきましたが、老後のための準備はどんなに考えても「これで安心」とはなりません。自分は何歳まで健康でいられるのか、十分な蓄えはあるのか。

 

キャッシュフロー表では百歳まで暮らせる計算になっていても、それは所詮画餅に過ぎません。まさか日本がジンバブエベネズエラのようなハイパーインフレになるとは想像できなくても、「絶対無い」とは誰も保証してくれません。

 

健康診断の結果に異常が無くても、それは長寿の保証にはなりません。体に良いことを全て取り入れたとしても、自分の寿命を操ることは出来ません。

 

結局はリスクフリーの人生など無い、と言う結論になるのですが、それでも、自分の老後を「たぶん、大丈夫だろう」くらいのものにはしたいと思っています。

 

私が自分の老後のことを考え始めたのは、結婚し、妻と将来の資金計画を立てたのがきっかけでしたが、より切実な問題として意識するようになったのは、両親の老後問題に関わってからです。

 

若い時には、自分の老後生活のイメージなど頭に思い描くことなど出来ませんでしたが、老親の生活を息子の立場から見たり、知り合いからの話を聞いたりすると、真面目に働いて定年を迎えさえすれば、豊かな老後生活を迎えられる、と言うわけでは無いことが分かるようになって来ました。

 

理想の老後生活のために必要な準備に関して言えば、お金、健康、生きがい - 大きく分けるとその三つが妻と私にとっての課題です。

 

若い方々にとって老後は遠い先の話のように感じられるでしょうが、あっけないほど早く老後は目の前に近づいてきます。そして、それは先送りできない問題です。

 

老後問題は、今現在、お金や健康の不安を抱えていない人にとっては他人事かもしれません。私は幸か不幸か、両親の退職後の生活ぶりを見て来たため、妻と私の老後について、真面目に考える機会を得ることが出来たのだと思います。

 

自足的な生活

私の両親が隠居生活の場に選んだのは、当時賑わっていた観光地でした。何度か旅行で訪れたこともあり、温暖な気候は老後生活を送るには打って付けだと考えたのでしょう。父親は廃業し、それまで住んでいた家を売却して手に入れた資金で、この観光地に終の棲家を建て、残りのお金を老後資金に充てることにしました。

 

結局、夫婦水入らずの悠々自適な老後生活は、父の死によって6年で終わってしまいましたが、それによって状況は一変しました。

 

車が無ければ生活できない地で、車を運転出来ない母親が取り残されてしまったのです。その時点で、母親のリウマチは進行していて、独りで外出するのもままならない状態でした。

 

風光明媚な観光地は、たまに訪れる分には素敵な旅行先ですが、年寄りが生活するには決して最適な場所ではありません。

 

さらに悪いことに、両親は老後資金の大半を使い果たしていました。事業が傾いた挙句のリタイアでしたが、生活レベルを下げることが出来なかった結果、貯蓄の取り崩しを止められなかったのです。

 

私は母に家を引き払って東京に戻るよう説きましたが、母は父との想い出の家を離れたくないと頑なな態度を崩しませんでした。それに対して私は母に、お金の援助はしないことと、年金の範囲内で暮らせる生活に改めるように言いました。

 

妻には“鬼息子”と罵られたものの、親への援助が自分たちの今の生活や将来の予定を脅かすことは避けたかったのです。それでも、その後数年は母への仕送りをしていました。母が生活レベルを下げるにはそれなりの時間を要したのです。

 

私の母は現在、年金の範囲内で生活できるようになりましたが、それは、私の忠告を受け止め、生活レベルを下げる努力をしたことと借金がなかったことが幸いしました。さもなければ、私が金銭的な負担を被ることもあったわけです。

 

老親の生活を見て、私は自分が年老いた後に娘たちに迷惑をかけるようなことはしたくないと思いました。それが老後のための準備を一層真剣に考えるきっかけを与えてくれました。

 

老後資金の準備については過去に何度か記事を書きましたので重複は避けます。しかし、覚えておかなければならないのは、入ってくるお金は保証されないと言うことです。リストラや勤め先の倒産などの想定外の困難を、自分とは無関係などとは言い切れません。

 

他方、自分の生活レベルは自分でコントロール出来ます。老後を見据えた生活レベルの最適化と慣熟は、早く始めればそれだけストレスが少なく済みます。逆に、一旦上がった生活レベルを後になってからダウンサイジングするのは、苦痛を伴うものになってしまいます。

 

私の父は自営業でしたが、かつての羽振りの良い時期の生活レベルを忘れられずに、老後資金を早くに消尽してしまいました。妻と私はそれを反面教師として、給料は上がっても生活スタイルは変えないことを心がけてきました。

 

それでも、老後の自足的生活が約束されたわけではありません。受け取る年金の範囲内で日々の生活を送り、たまに羽を伸ばしたい時に限り貯蓄を取り崩す、と言うのが理想ですが、そう都合良く物事が進むかは分かりません。しかし、理想に近づけるためにも、若い頃からの生活レベル、生活スタイルの維持は大切なのだと考えています。(続く)

努力と無理 (2)

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囚人の穴掘り

入社後の最初の職場で、誰もが遅くまで机にかじりついている様を見て、私は、仕事とはこういうものなのだと思うようになりました。地方の事業所勤務の時はそれほど酷くはありませんでしたが、本社勤務になってからは、終電の時間までの残業は当たり前。たまに仕事を早く切り上げられた時は上司や先輩に連れられて夜の街に繰り出す – そんな風にして、私も会社人間の道を歩んできました。

 

家族よりも上司や同僚といる時間が長くなると、大切にしなければならないはずのプライベートは隅に追いやられ、仕事が生活の中心になります。上司からの期待、「自分で選んだ仕事」と言う足かせ。その一方で、長時間労働による肉体的な疲労と、納得できない仕事をやらされている自分への嫌悪感が蓄積して行きました。そうやって体と心に無理を強いた結果、私は30代半ばで限界に達してしまいました。

 

「無理」は、仕事の量だけでは無く、職場での人間関係、社風・企業文化と自分の思いとのギャップなど、様々なものから押し寄せてくるストレスの総体です。そのようなストレスが澱のように積もった結果、私は、ギブアップしてしまったのです。

 

もちろん、心の変調に至る経緯や理由は人それぞれなので、今、職場でメンタルの不調で休職中の社員をひとまとめに論じることは出来ません。

 

しかし、私の経験から言えることは、職場や仕事に生きがいや張り合いを求める自分がいる一方で、成功体験を得られない仕事を繰り返し続けることは、大きなストレスになりました。それは、業務の量的な圧迫感とは異なります。達成感をもたらさない仕事の繰り返しが、囚人の穴掘りのような懲罰的なものに感じられるようになるのです。

 

長期休養から復帰した私は、職場に過度の期待は持たないことと、もし、自分が部下を持つ身になった時には、部下に自分と同じ思いはさせたくないと漠然と考えるようになりました。

 

努力と無理

それから十数年経ち、会社も様変わりしました。しかし、それは決して良い方向にではありませんでした。

 

私が海外駐在から本社に復帰した頃の会社の状況は、貴重な戦力になるはずの年齢層が抜けて行き、中途採用による補充もままならず、不足した労働力の補填はそれぞれの部署任せ – そのような有様で、それは現在も変わりません。一般社員の時間外労働の上限が年々低くなる中、しわ寄せは中間管理職に来ることになり、彼らは疲弊して行きます。

 

現に、私の部署でも、一般社員が就業時間内に処理しきれそうにない仕事は、課長や部長が行なって何とかやり繰りをしていました。そうなると、本来管理職が行なうべき管理業務や企画立案のための時間が削がれてしまいます。

 

私が若手社員の頃、片づけられなかった仕事を、土日に出社してこなしていたことがありました。それが今や、週末のオフィスには若手社員の代わりに、幹部社員の姿が多く見られるようになりました。いくら「仕事はお金を稼ぐため」と割り切っていた私も、仕事が片付かなければ土日を潰して対応する以外にありませんでした。

 

平日は部下の仕事を手助けし、週末に本来の自分の仕事を片付ける。私も部下の課長二人も肉体的にも精神的にも疲れが溜まっていましたが、私は部下二人を励まし続け、何とか仕事を回している状態でした。

 

コロナ禍で在宅勤務が本格的に開始される前年、私は帯状疱疹や排尿障害を患い、滅多にひいたことの無い風邪をひくなど、明らかに体調がおかしくなっていました。二人の課長も時折通院のために休みを取っていました。

 

あの時、在宅勤務が導入されたことは不幸中の幸いでした。そして、私が自分の大きな過ちに気づいたのも在宅勤務がきっかけでした。無駄な会議や打ち合わせが減り、必要な会議も極力短時間で行うようにしたところ、使える時間が増えました。それによって一般社員の作業も捗り、管理職は管理の仕事に専念しやすい状況になりました。

 

本来であれば、在宅勤務の開始などを待たなくても行なうことが出来た工夫でした。私は目先の仕事をこなすことしか考えずに、効率化に気が回らなかったのです。日頃部内では合理化や工夫を促していた管理職としては汗顔の至りでした。

 

そして、もう一つの私の過ちは、部下を励まし続けたことでした。誰かから期待されて気分を害する者はいない – そう考えた私でしたが、励ましの声が、相手にしてみれば自分を追い詰める言葉になっていたかもしれないと言うことまで思いが至りませんでした。

 

何故、私は部下に休むように言わなかったのか、必要な努力と無理をすることは違うのだと学んだはずなのに、私は、また同じ過ちを、しかも自分の部下に対してしていたのです。

 

仕事をしていると、多少の無理は仕方無いと思う時があります。また、自分が出来る“多少の無理”を、無意識のうちに同僚や部下にも期待してしまうことがあります。励ましの言葉は、相手に無理強いを迫る刃にもなるのです。

 

必要な努力は怠らない、しかし、無理はしない。自分を大事にする。忙しい時ほど見失いがちなとても簡単な、そして一番大切なことです。