和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

親と子の葛藤

親と子の葛藤

今年は義母が無くなって満八年になります。一昨年、七回忌を執り行う予定でしたが新型コロナの影響で延期となり、遅ればせながら来週末に二年遅れの法要を執り行う予定でした。久しぶりに兄弟姉妹とそれぞれの家族が集まるので、菩提寺での法要の後、温泉旅館に一泊するはずだったのですが、二人いるうちの上の義兄の家族が新型コロナに感染してしまいました。

 

妻の話からすると、兄弟姉妹四人の中で、とりわけ一番上の義姉は法要だけでも“決行”すべきと強く希望する一方で、北海道で独身生活を送っている下の義兄は、無理して集まる必要も無かろうと、義姉の考えには否定的。妻は自分がまだ病気の治療中であることから、今回は参加しないと義姉に伝えたようですが、そのことを“やんわりと”詰られたとうんざりした様子でした。

 

義姉からすると、妻は一番可愛がられて育った子どもだったにも拘わらず、生前も含め義母との間に距離を置こうとしていた態度が未だに納得がいかないようでした。

 

親と子の関係性など、たとえ夫である私でさえ本当のところは分かりません。妻が私に対して、心の奥底の部分まで曝け出して話しているわけでも無く、私も根掘り葉掘り妻から聞き出すようなことはしません。

 

ただ、私の目から見た義母と妻は、決して仲の良い親子関係ではありませんでした。

 

妻が就職した後しばらくして独り暮らしを始めたのは、息苦しい実家での生活に嫌気が差したからだと言い、義母はそんな娘の態度を自分勝手なわがままだと言い捨てました。

 

私が妻の実家を初めて訪れ、結婚したいことを伝えた時、義父は私では無く、自分の娘に向かって、「自分がそうしたいと思ったとおりにすれば良い」と言いました。

 

それに対して、義母は声を荒げて大反対しました。家を勝手に飛び出した娘が、今度は親を見捨てて転勤族の男と結婚するとは何事か – 当時の私は義母の言葉をそのまま受け止め、厄介なことになりそうな予感を覚えたものです。

 

義母に対する“説得工作”は本筋では無いので端折りますが、最後は義父が義母を説き伏せることで、妻と私の駆け落ちは計画だけで終わりました。

 

私たちの結婚で表面上は収まったように見えた母娘の軋轢でしたが、それは、物理的な距離によって互いにぶつかることが無くなっただけで、かえって宥和のきっかけを失ったままに時間だけが過ぎて行きました。

 

雪解けを待たずに

義母と妻とのギクシャクした関係は結婚後も続いていました。逆に私は義母と普通に会話を交わせるような間柄になり、年一回、お盆の頃には私が妻を宥めすかして一緒に里帰りをするような有様でした。妻が上の娘を妊娠した時、それを伝えたのは私で、電話口での義母は、それまでの“偏屈な母親”像からは思い浮かべることの出来ない喜びようでした。

 

妻の妊娠は長い間の母と娘の蟠りを解くきっかけにはなりましたが、大きな歩み寄りを見せたのは義母の方で、妻はこれまで自分を縛りつけていた母親を心の底で許せていない様子でした。

 

里帰り出産を促す義母に対して、妻は頑なな態度を崩しませんでした。その頃、私の最初の海外駐在が決まっており、私としては妻が実家の世話になるなら有難いとさえ思っていたのですが、妻は駐在先での出産を希望しました。駐在二か月前に、妻は卵巣嚢腫の摘出手術を受けましたが、それでも考えは変わりませんでした。後にも先にも一度だけ、妻が「あの人の世話にはなりたくない」と吐き捨てるように言ったのはその時でした。

 

最初の駐在を終えて帰国した私たちは、毎年お盆の頃には家族全員で義父母に顔を見せに里帰りをしました。義父は帰国した翌年に亡くなり、その後は義母独りの生活が続きましたが、妻は自分から母親の様子を見に行こうとはしませんでした。私としては、母娘の関係が改善されることを願っていたのですが、こればかりは無理強いしても良いことはありません。気長に氷解を待つしかないのだと半ばあきらめていました。

 

義母の危篤を知らされたのは二度目の駐在の最中でした。入院は一年近くに及び、小康状態と悪化を繰り返した後、二度目の秋を待たずに義母はこの世を去りました。母娘は真の和解に至ることなく、その機会が訪れることも無くなりました。

 

思うに、妻は、自分の子育ての中で母親に対するアンビバレンスを克服しようとしてきたのかもしれません。自分がそのような母親に育ててもらいたかった“あるべき母親像”を追い求め、また、自分が成し得なかったことを、娘たちを通じて体験し直して来たのでしょう。

 

妻は義母が四十に差しかかってから生まれた子どもでした。すぐ上の義兄とは十歳も離れており、妻が小学生の頃には他の姉兄は実家を出ていたため、その後親子三人での生活が長く続きました。私が想像するに、義母は一番下の子である妻をずっと自分の近くに置いて置きたかったのだと思います。もし、義母がもっと言葉を尽くして自分の気持ちを上手く自分の子に伝えられていれば、親子の関係はまた違った様相になっていたかもしれません。