和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

微笑ましい騒音

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除夜の騒音

私は小学校卒業まで東京の下町に住んでいました。町工場が軒を連ねる中に父親の経営する会社がありました。小さなビルの1階が事務所と工場、2階と3階が私たち家族の住居となっていました。

 

通りを挟んで反対側には小さなお寺がありました。毎年大晦日の夜は、そのお寺が除夜の鐘を鳴らします。紅白歌合戦が終盤に差し掛かる頃、隣りから大きな鐘の音が鳴り始めます。それが年越しのお蕎麦を食べる合図でもありました。そんな大晦日の風景は、私にとってとても懐かしいものです。

 

その後、父の工場の拡張を機に、私たちは別の土地に住居を構えました。そこは文字通り閑静な住宅街で、大通りからも離れていたため、大晦日の夜はしんと静まり返っていました。引っ越し後の最初の大晦日。除夜の鐘の鳴らない年越しは、私にとってどことなく物足りない寂しい夜でした。今でも、テレビで除夜の鐘が映し出されると、子どもの頃の大晦日の夜を思い出します。

 

そんな除夜の鐘も、最近では騒音のクレームで中止の憂き目に遭っているお寺が増えてきているようです。煩悩を取り除く有難い音色なのか、耳障りな騒音なのか。それは受け手次第なのですが、鐘の音を不快に感じている人が少しでもいれば、その声に応じるのは今のご時世としては致し方ないことなのかもしれません。

 

騒音と言えば、最近では、保育園や幼稚園の園児の声も騒音と見なされているようです。私たちの二人の娘がお世話になった幼稚園は、当時は騒音のクレームとは無縁でしたが、数年前、娘が同窓会で久しぶりに幼稚園を訪れると、園庭の周囲は背の高い防音フェンスで囲まれていて、窮屈に感じたと嘆いていました。

 

たとえ、地域に根差している幼稚園だとしても、周辺の住民の顔ぶれは変わります。園児たちの元気な声を聞いて、微笑ましく思う人もいれば、単なる騒音としか感じられない人もいます。幼稚園としても、ご近所トラブルを避けるためには周辺住民からのクレームに最大限の譲歩をせざるを得なかったのでしょう。

 

お静かに

私たちが住んでいた社宅は、各部屋が夫婦と子供2~3人用の間取りになっていて、子どもの年齢層も似たり寄ったりでした。入居者の年齢制限があるので、大体の住人は子どもが高校に上がる前までには社宅を退去することになります。

 

ある年の夏。学校が夏休みに入り、社宅の敷地内では子供たちが元気に遊んでいました。周囲にはいくつか公園がありましたが、社宅内は不審者を警戒する必要が無いため、親としては、子どもたちだけで遊ばせるには安心できる場所でした。

 

ところが、夏休みが始まって数日後に回ってきた回覧板を見て、妻は素っ頓狂な声を上げました。それは、人事部長名で発せられた文書でした。受験生のいる家庭もあるため、社宅の敷地内では日中でも大きな声を出さないことや、近所の公園やスポーツセンターを子供たちの遊び場として推奨することが書かれていました。

 

しかし、人事部長名の文書は全く効き目が無く、子どもたちの遊び声が絶えることはありませんでした。実際に社宅に住んでいた私たちからすると、外から聞こえる子供たちの声や、同じ棟の隣人が発する生活音に悩まされたと言う記憶はありません。

 

野中の一軒家とは違い集合住宅なのですから、ある程度の物音は止むを得ません。自分たちの事情で、「お静かに!」と唇の前で指を立てても、周囲がそれに応じてくれることは期待できません。

 

気づまりさせない配慮

それから十年近く経ち、私たちが海外駐在から戻った直後、また同じ社宅に住むことになりました。6月に上の娘が高校を卒業すると、妻と娘たちは一足先に帰国し、私は8月に家族と合流しました。

 

娘は予備校に通い、家でもそれなりに勉強しているようでしたが、妻も私も、そして下の娘も必要以上に我が家の受験生に気を遣うことはしませんでした。もちろん、テレビの音量を抑え気味にしたり、食卓でワイワイガヤガヤ大声を上げたりするようなことはしませんでしたが、少なくとも腫物に触るような接し方ではありませんでした。

 

それからひと月ほど経ってからでしょうか、私たちの部屋の上階に新しい住人が引っ越してきました。中途採用で入社してきたNさんは、奥さんと幼稚園の年長組の男の子、生後半年の男の子の四人家族でした。

 

しかし、Nさん家族が住む上階は、小さなお子さんがいるとは思えないほど静まり返っているのでした。時たま、子どもは飛び跳ねるような物音が聞こえることもありましたが、平日も休日も生活音らしい物音がほとんど聞こえません。

 

ある日、私が帰宅した時、階段でNさんの奥さんとすれ違いました。奥さんは気まずそうに、「いつもうるさくして申し訳ありません」と頭を下げます。その時初めて、私はNさん家族が階下の私たちに必要以上に気を遣っていることを知りました。

 

小さな子どもに「家にいる時は静かにしていろ」と言うのは無理な話です。Nさん家族が階下への配慮から息の詰まるような生活をしているのだとすれば、そんな気配りは止めてもらいたいと言うのが私の気持ちでした。

 

私は奥さんに、我が家にも娘がいて、子育ての苦労は理解していること、子どもの遊び声や飛び跳ねたりする音は気にならないことを伝え、くれぐれも余計な気遣いはしないようにお願いしました。

 

家に帰り、妻と娘たちにその話をすると、妻は娘に「『うるさくて勉強出来なかったから落ちた』なんて言い訳は聞かないからね」と釘を刺しました。

 

いつしか上階から子供の遊び声や小走りに動き回る音が聞こえ始めました。「元気がいいわね」と妻。子供好きの私たちにとって、それは、元気を与えてくれる微笑ましい騒音なのでした。