和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

義母と妻

蟠り

この春に就職を控える下の娘から、配属先によっては独り暮らしになるかもしれないと聞かされました。まだ確定ではないものの、心配性の妻にとっては大きな不安の種になりました。

 

娘たちはいつか巣立っていくもの ‐ 心の準備は出来ていたはずなのに、いざそれが現実味を帯びてきて、妻は再び自分の本心と親としてのあるべき姿の間で煩悶しています。

 

私が会社に入って妻と知り合った頃、すでに彼女は親元を離れて独り暮らしをしていました。勤務先は実家から通える距離でしたが、妻は母親の過干渉や束縛から逃れたかったのです。

 

妻と私の結婚に最後まで反対したのは義母でした。一番大きな理由は、私が“転勤商売の男”だったところにあったようですが、後にして思えば、義兄や義姉も実家から離れ、末っ子である妻まで自分の元から離れようとしていることに、義母は深い淋しさを感じていたのだと思います。

 

結婚後、毎年のお盆には気乗りしない妻を連れて義父母の元を訪れましたが、私の目から見ると、義兄も義姉も自分の母親の話を適当にあしらっているようで、気がつくと私が義母の話の聞き役になっていました。

 

実の子どもなら、たまに実家に帰って来た時くらい親に優しくても良いのでは、と私は少々不快に感じたものでしたが、それは、私にとって義母は所詮他人で、実の親子の間の蟠りを知らないからこそ、優しく接する“振り”が出来ていたのかもしれません。

 

義母と妻

妻と義母の関係は、上の娘の誕生を機に表面上は改善されました。それでも、妻から実家に電話をかけることは無く、義母からかかって来る電話の話相手をするのは決まって私でした。

 

そんな微妙な親子関係が再び悪い方向に傾きかけたのは、上の娘が小学校に上がる年でした。

 

私が子どもの頃は、男の子は黒、女の子は赤が定番のランドセルも、すでにそんな時代ではなくなっていました。妻も私も、近いうちに娘と一緒にランドセルを買いに行くことにしていました。ランドセルの色は娘に選ばせよう - 口には出しませんでしたが、お互いにそのつもりでした。

 

その矢先に妻の実家から荷物が届きました。赤いランドセルでした。それを見た途端、妻の口から大きなため息が漏れました。私は怒りに震える妻にかける言葉を探していました。

 

あの時、母親からの過干渉や押し付けが自分の子にまで及ぶことに、妻の嫌悪感が爆発したのだと思います。自分の子どものランドセルの色まで親に決められてしまうのか – 妻がそんなことまで考えたのかは定かではありません。しかし、義母の、“良かれ”と思ってしたことが裏目に出たのは間違いありませんでした。

 

私は、怒りに任せて実家に電話をしようとする妻を宥めました。その脇では、娘が事態の飲み込めずに心配そうに様子を見ています。娘からしてみれば、“おばあちゃんからの入学祝い”で、なぜ母親が怒り出したのか理解出来ません。

 

年端も行かない娘が、どれだけその場の空気を読めたのかは分かりませんが、娘は赤いランドセルをとても気に入った様子でした。

 

私はそれを見て、義母からの贈り物を有難く頂こうと妻を説得しました。義母の頭には、私たち親子の喜ぶ姿が浮かんでいたことでしょう。その行為が独りよがりだったとしても、私は、“あの”義母が見せてくれた気遣いを受け止めたいと思いました。

 

妻はランドセルの一件を忘れてしまったかもしれません。あるいは、思い出したくもない記憶として封印しているかもしれません。

 

ただ、時たま妻が娘たちの服装や髪型に口出しして、娘たちがそれを煙たがっている場面に遭遇すると、私の目には、妻と義母がどうしても重なって見えてしまいます。

慶弔予算

家計簿

新年も半月余りが過ぎてから、今年の家計予算を立て忘れていたことに気がつきました。例年なら十二月に入ると何度もページを捲ってヨレヨレになった家計簿を読み返しつつ、妻と新年の家計予算の作成に取り掛かるのですが、今年はまだ昨年十二月分の家計簿も締めないままとなっていました。

 

今は日々のお金の出入りは私がアプリで管理していて、それを妻が週単位あるいは一か月分まとめて手書きの(!)家計簿に転記してつき合わせをしています。

 

以前は、家計の管理は妻に任せ切りでした。結婚以来、妻は手書きの家計簿を使い続けていましたが、闘病開始を境に私が家計管理を行なうことにしました。

 

ところが、妻は私に家計を任せることに不安を感じたのでしょう。体調の良い時に自分でも家計簿をつけることを続けて今に至ります。

 

妻の家計簿は、外食した際のメニューや美術館のチケットの半券をスクラップして、簡単なコメントを書き添えたりしているので、純粋な家計管理を目的にしたものでは無く、日記の役割も兼ねているのだと思います。

 

残念ながら、ここしばらくは外出の機会がほとんど無かったので、妻に日記の“ネタ”をプレゼント出来ずにいます。旅行などのレジャーのための予算は、この三年余りの間、あまり使う当ても無く毎年繰り越して、積立金になっているので、今年は彼女の体調と相談しながら、少し活動的になりたいと考えています。

 

慶弔費の行方

もうひとつ、使う当てが無くプールされ続けているものに慶弔費があります。ここ数年、だれかの結婚式に呼ばれることも無くなりました。前回ご祝儀袋を用意したのはいつのことだったか思い出すことも出来ません。

 

不祝儀も同じで、通夜・葬儀に参列することも無くなりました。一昨年に従姉が亡くなった時に久方ぶりに礼服を着ましたが、それも数年ぶりのことでした。

 

慶弔費も含め、以前は広い意味での交際費が家計の中で無視できない出費でした。特に“弔”の方は、ここ最近は家族葬が主流になったため、弔問も香典も無しの状態が続いています。

 

結局、今年の予算からは慶弔費の項目は無くすことにしました。誰かの悦ばしいイベントのために備えておくことは良しとしても、お亡くなりになった方のために備えておくと言うのは、今さらながら適切では無かったとの反省もありました。

家族の有難み

乾燥肌と手荒れ

乾皮症気味の私にとって、空気が乾燥する冬は厄介な季節です。かゆみを伴う肌のガサガサを抑えるため、保湿クリームが手放せません。

 

もう一つの冬場の悩みは手荒れです。洗い物が多い夕食後は食洗器のお世話になりますが、それ以外は手洗いにしています。食器類を洗う際にはゴム手袋をすればいいのでしょうが、私はどうも手袋の感触が苦手なのと、嵌めたり脱いだりする手間も面倒なので、つい素手で水仕事をしてしまい、結局手荒れに悩まされることになります。

 

若い頃も水仕事は素手で行っていたのですが、今ほど酷い手荒れにはなりませんでした。加齢のために体内の水分量が減っているのでしょう。娘たちも洗い物をする時は素手で行っているのですが、潤いのある若さは手荒れとは無縁のようです。

 

自分の手のあかぎれを見て思い出しました。私が中学生か高校生くらいの頃だったか、母も手荒れに悩んでいて、家事が一段落ついた後、荒れた手にクリームを擦り込んでいたものでした。

 

当時の私は、そんな母が一手に担っている家事を手伝おうと考えもしませんでしたが、自分にその役割が回ってきた今にして思えば、あの頃、皿の一枚でも洗ってあげることが出来たのではないかと後ろめたさを感じます。

 

親の有難み、家族の有難み

親の有難みは、自分がその立場に置かれてようやく知ることが出来るものなのでしょう。そう考えて、私は娘たちには“有難み”の押し売りをしたことはありません。いつか、娘たちに親の有難みを分かってほしいと期待することもありません。いずれにしても、娘たちにとってはまだだいぶ先の話です。

 

上の娘は不登校になりかけ、下の娘は反抗期に自己主張の塊となり、それぞれに妻や私を悩ませました。

その大きな波が過ぎた後でも、親子で同じ屋根の下で暮らしていれば、些細な事で言い合いになることもあり、いつも和気あいあいとは行きません。しかし、そのようなことは一晩寝れば忘れてしまうようなもので、悩みのうちには入りません。

 

今は家族として一番安定した状態なのだと思いますが、私がどんなに願っても、親子四人で一緒に暮らせる時間がいつまでも続くわけではありません。

 

私が出来るのは、一緒にいてくれる妻や娘たちに感謝することだけです。