和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

良い眠り

良い眠り

三年前に体調を大きく崩した時、診察を受けたお医者さんから睡眠不足を指摘されました。当時の平均睡眠時間は三時間から四時間程度でした。

 

私は学生時代からショートスリーパーで、それが自分に合っているのだと思い込んでいました。ただ、今振り返ってみると、体調を崩す前の数年間は、布団に入ってもすぐに寝付くことが出来ず、睡眠の“質”は良くはありませんでした。

 

その後、睡眠時間を増やすよう努力してきて、今では六時間前後は眠れるようになりました。何よりも目覚めた時にぐっすり眠れた充実感を得られるようになったことから、睡眠の質も確かに向上しているのだと思います。

 

当初は、夕食や入浴の時間を早めにしたり、布団に入る前のルーティンをいろいろ試したりしましたが、今は、寝る前の瞑想タイムなども不要で、布団に潜り込むと数分で眠りに落ちます。こんなに簡単に眠りに就くことが出来るのは学生時代以来かもしれません。

 

良い眠りを得られたのと同時に、悪い夢を見ることもほとんど無くなりました。

 

気持ちの悪い汗をかいて目覚めた時に、その直前まで見ていたであろう夢が非常に不快なものだったことは分かっていても、私の場合、夢の内容を事細かに覚えていることはありません。ただ、漠然と、高いところから落ち続けたり、何かに追われ続けたり – たぶんそんな内容なのだと思います。

 

今は、悪い夢どころか、夢自体を見たことすら知らないまま朝の目覚めを迎えます。それだけ深い眠りの時間が長いのでしょう。

 

ストレスと睡眠

思うに、就寝前の試行錯誤もさることながら、私の中の、これまで意識していなかったストレスが取り除かれたことが、睡眠時間の増加や質の改善に大きな影響を与えているのだと感じます。

 

以前は、寝ても覚めても何かしら仕事のことが頭から離れませんでした。寝る直前まで翌日の会議の資料の読み込みに時間を費やし、布団に入って目を閉じてからも、諸々の社内調整のことや部下の評価、組織目標などが次から次へと頭を過り、かえって目が冴えてしまうことが幾度となくありました。

 

きっと私は疲れていたのでしょうが、慢性的な疲労感に慣れてしまい、それが平常の状態だと勘違いしてしまったのかもしれません。結果として、体調不良を引き起こしたのですが、それが契機となって睡眠の大切さに気付くことが出来て良かったのだと思います。

介護考(2)

同居反対

私は二週に一回の頻度で母の様子見をしてきましたが、コロナ禍以前は、仕事の都合で妻に代わってもらうこともしばしばありました。結婚当初から、妻は実の息子である私よりも母と馬が合い、嫁姑問題とは無縁で、将来母と同居するのも厭わないことを口にしていました。

 

他方、母は、「誰の世話にもならない」と言うのが口癖でしたが、もし、私たちとの同居を申し出たらどのような反応を示したでしょうか。最終的には提案を受け入れたかもしれません。

 

妻の母への気遣いは有難いことでしたが、私は親との同居に反対し続けてきました。三十年近くも別々に暮らして来た者同士が一緒に暮らせば、改めて共同生活のリズムを立て直さなければなりません。

 

また、同居後に、母の介護が本当に必要になった場合、共働きだった私たちは、それぞれの仕事をどうするのかも考える必要がありました。

 

それ以上に、私としては、良好な妻と母との関係が、同居後にギクシャクしたものになることを一番恐れていました。これまではたまに会うだけだからお互いに気遣いが出来ていたのでしょうが、毎日顔を合わせればそうは行かないでしょう。もし、両者の関係が険悪なったとしても、一旦同居したらもう逃げ場はありません。

 

母の介護が、早晩避けては通れない問題となることは分かってはいましたが、一緒に暮らせば解決とは行きません。私は妙案を見つけられないままに、問題をずっと先送りしてきました。

 

妻の介護

これまで私は、自分が亡くなった後の家族のことばかりを心配してきました。男女の平均寿命の差からしても、私の方が先に逝く確率の方が高く、いずれ自分が看取られる側に立つものだと都合良く考えていました。妻を看取ることなど、私には考えの及ばないことでした。

 

その妻が乳がんを患い、手術を受けた後は当面自宅療養をすることが決まりました。私の中で想定して来た将来の家族像や老後の生活のイメージが一変したのです。人生観と言うと大袈裟なのでしょうが、今まで仕事中心に回っていた私の思考は大きく向きを変えました。

 

人生の目的や自己の存在意義と言った哲学的なことでは無く、もっと自分の手の届く範囲、時間軸での自分の役割は何なのかを考えた時、私は仕事のキャリアは脇に退けて、妻と寄り添うことを選びました。

 

私にとって幸いだったのは、子育てもほぼ終わり、万が一仕事を失ったとしても当面は困らない状況にあったことと、母が曲がりなりにも独りで生活出来ていることでした。

 

私は、妻の術後の約二か月間、介護休業を取りました。当初、私は仕事を継続しながら、娘二人とも役割分担して家事や妻の介護を行なうことを考えていました。

 

しかし、手術前の抗がん剤治療の期間に分かったのは、三人で役割分担とすると、仕事や学業との折り合いをつけづらく非効率なことでした。おまけに、家事の当番制が上手く回らないとそれがストレスになります。

 

せっかく父娘三人で協力し合おうとしても、お互いに気まずくなるくらいなら、私はいっそ、自分が“専属で”介護に当たり、それを残りの二人がサポートする方が良いと考え、結果として介護休業の道を選びました。

 

実際に介護休業を取った結果、妻の療養生活を全面的にバックアップするためにはそれがベストな選択だったと、私は今でも思っています。介護と仕事を両立させる努力は必要だったのかもしれませんが、私の場合に限って言うと、無理をしなくて正解でした。

 

介護休業は、妻の闘病を支えるために取ったものです。その理由に間違いはないものの、いざ介護生活に飛び込んでみて、私は、“妻のため”以前に自分自身がその役割に没頭していることに気がつきました。

 

あれから二年近くが経ちますが、今にして思えば、私の心のどこかに、家庭人として至らなかった過去の埋め合わせをしたいとの思いがあったのでしょう。仕事を理由に、僅かな負担とは言え妻を頼りにしてきた後ろめたさの積み重ねが、私の中に澱のように溜まっていたのだと思います。

 

介護生活が終わった後も、私の生活の中心が家事であるのは、私のささやかな贖罪の気持ちの表われなのでしょう。

介護考(1)

呆気無い最期

過去の記事で何度か触れましたが、私の父親は六十六歳でこの世を去りました。事業を畳んで、地方の観光地に終の棲家を構え、母と二人の老後生活を楽しめるようになって六年足らず。その最期は呆気無いものでした。

 

当時私は海外駐在中で、クリスマス間近に長女が生まれました。お互いの親に孫の顔を直接見せられない私たちは、娘の写真を日本に送りました。しばくして、義母からは写真が届いたとの電話が来ましたが、私の親からの連絡はありません。

 

きっと電話が来るのを待っているのだろうと、私は両親に電話をしました。普段電話口に出るのは母親でしたが、その日はたまたま父が電話を取りました。他愛の無い話の後、長女の写真を送ったことと、もう少し暖かくなったら一時帰国することを伝えて電話を切りましたが、私にとってそれが父との最後の会話になりました。

 

その翌日、仕事中の私に母から、父の死を知らせる電話がかかってきました。前日の私との電話では、少し風邪気味だと言っていた父でした。

 

私が電話をした日の夕方、父は急に高熱を発し、翌日の早朝に異変に気がついた母が救急車を呼びましたが、救急隊員が到着した時にはすでに心肺停止状態。蘇生も上手く行かず、同乗して来た医師によってその場で死亡が確認されました。

 

私の唯一の心残りは父に娘を会せられなかったことでした。娘の写真は、私が電話した日の午後に両親の手元に届き、床に臥せっていた父も写真を見ていた – そんな話を父の葬儀の後に母から聞かされました。

 

今から思えば、父の老後生活はあまりにも短く、孫と触れ合うことも出来ませんでしたが、長患いで床に伏したまま死を待つのでは無く、元気なうちに人生を全う出来たことはある意味幸せだったのかもしれません。

 

母も、私と同じようなことを折に触れて口にしますが、それは自分の置かれている状況が父とは対極的だからなのでしょう。

 

介護する側、される側

父と十歳違いの母は、今の私と同じ年齢で未亡人となりました。その頃すでにリウマチを発症していた母でしたが、まだ一人旅を楽しむ余裕がありました。

 

それが、還暦を境に病状は悪化し、まずは両膝に人工関節を入れる手術を行ない、数年後には両肘も同じ状態になりました。

 

そんな母に、私は家を引き払って生活の便の良い場所に移ることを勧めましたが、当の本人は頑として聞き入れませんでした。

 

それから二十年余り、母は今でも独り暮らしを続けています。その間、私たち家族は二度目の海外駐在で約七年間日本を離れていましたが、帰国してからこれまで、私は近い将来の母の介護をどうするかを真剣に悩み続けています。

 

母は今でも「自分の介護は不要」と意地を張り、独りで身の回りのことをやろうとしています。私は二週に一回の頻度で母の様子見に行っていますが、年を追うごとに家の中の片づけが行き届かなくなっているのが分かります。

 

母はきっと、誰の世話にもならずに最後まで自立した生活を維持しようと思っているのでしょうが、その気力にいつまで体がついて行けるのか、本人が一番不安に感じていることでしょう。

 

本人の気持ち、周囲の心配、介護される側とする側とで、いつどのように折り合いをつけるべきなのか、私の中ではまだ結論を出せていません。(続く)