和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

春先

春先のこの時期、私にはあまり良い思い出がありません。数年前の今頃、数十年前の今頃、自分が何をしていたか頭を過ることがありますが、それらは大概不快な記憶です。失恋の痛手、受験の失敗、メンタル不調 - 。同じ時期の良い思い出を探そうと思えばいくらでも見つかるのですが、悪い記憶が勝手に割り込んできて、明るい情景を押しのけてしまいます。

しかし、それは私の個人的な心持ちの問題で、妻に打ち明けるにはばかばかしく、ましてや専門家に相談するようなものでもあるまいと思い、静かに悩み続けてきました。

個人的でばかばかしい悩みは、ある時期を境にとても軽い、取るに足らないものに変わります。歳を重ねてストレス耐性が高くなったのではなく、“気づき”によるものだと思います。

“結果”は後から変えることはできません。受け入れるしかありません。そんな当たり前のことを私はようやく“受け入れる”ことができるようになりました。

思うに、私の悩みは“あるべき自分の姿”とのギャップを埋められなかっただけの話でした。理想と現実。手に入れられなかった理想の結果は過去に置き去りにされたまま、もう一度のチャンスが訪れることはありませんでした。変えられない現実に私は苦しんでいました。

翻って、私は今の自分に不満なのかといえば、そうではありませんでした。勝手に思い描いていた“あるべき自分”とは違うけれども、今の自分を憎んでいるわけではなく、むしろ自分や自分を支えてくれている家族を好きでいられるのならそれで十分ではないか ‐ ある日の帰宅途中の通勤電車の中、何の前触れもなく舞い降りてきた“気づき”で私は救われたような気になりました。

今でも過去の嫌な思いが不意に蘇ることがありますが、気持ちが沈むようなことはありません。不快な経験も心弾む経験も全て今の自分の一部として受け入れられるようになりました。

母の長話

年に一回、高齢の母親に認知症の検査を受けさせるようにしています。

本人は、「ボケ老人扱いするな」と言うこともあれば、「いよいよボケてきたのかもしれない」と弱音を吐くこともあります。自分の都合の悪い時はボケたふりをしているのかもしれません。

今回もお医者さんの見立ては「異常なし」。息子としては一安心ですが、母の四人の姉のうち、すでに鬼籍に入っている二人は、ともに、晩年は認知症を患い、自分が何者なのかも分からずにこの世を去りました。

母が私のことを息子だと分かっているうちに看取ることができれば – などと思うのは不謹慎なのは分かっています。ただ、伯母たちの最期を知る人間からすると、長く生きる分幸せが増えるものではないのだと考えます。

認知症ではないと診断されたとはいえ、ここ最近の母の感情の揺らぎは、私にとって少々気がかりになっています。

テレビで若い女性が被害にあった事件を見れば、すぐに我が家に電話がかかってきます。年頃の孫娘たちに何かあったら生きていけない、帰りが遅い時は私が駅まで迎えに行くように、変な男に騙されないように親が見守らなければいけない – そんな話が延々と続きます。

私は老母の説教に辟易してしまいますが、妻はそんな母の長電話に、私たち家族のことを心配してくれているのだからありがたく思うようにと言います。

母は自分の心身の衰えから、自分が先に逝くことをより強く感じるようになっているのかもしれません。残される息子や孫たちへの心配は、その思いの強さの表れなのだとすれば、長話を邪険にせずに“ありがたいこと”として受け止めなければならないのでしょう。

折り合い

キャリアのために

以前、ある中堅社員が、育児休業を取得した後に自分の評価が大きく下がったと嘆いていました。それは今まで順風満帆で、同期の中でも出世頭だった彼のプライドを大きく傷つけました。

結局、彼は転職して会社を去って行きました。最後の会話で、彼は「(私のように)家族のためにキャリアを捨てることができなかった」と言いました。

私にとってキャリアとは固執したり捨てたりするものではなく、ましてや“家族のため”に捨てたという意識はありませんでした。

ただ、あの時、彼の誤解を解こうという気持ちが私の中から湧いてきませんでした。彼に自分のことを分かってもらう必要がなかったからです。それは、彼が会社を去り、もはや自分とは関係のない人間だからというわけではなく、誰かに自分の考えを理解してもらうか否かは私に何の影響も与えないからでした。

 

折り合い

おそらく、昔の私だったら、他人の目をひどく気にしていて、自分が誤解されていると思ったら必死でそれを解こうとしていたことでしょう。しかし、他人の目は自分には関係のないことなのです。それに振り回されることに時間を費やすことがどれほど無益なのか、私は身をもって体験しました。だから、私は彼の誤解を解くことをせず、彼の考えに異を挟むこともしませんでした。

キャリアを気にする人にとっては、私の勤め先のように減点主義で、それを挽回する機会の少ない会社では、生きづらいのでしょう。

自分にとって何が大切なのか、何を大切にすべきなのか – それはひとそれぞれです。退職していった彼のような考えも“あり”です。私のように家族との時間を第一にしたいというのも“あり”だと思っています。

詰まるところ、どこで折り合いをつけるかは、誰かに教えてもらうようなものではなく、自分自身で決めるしかありません。