和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

就活アドバイス

娘の就活

ゴールデンウィークはほとんどの時間を読書に費やした私でしたが、一日だけ下の娘を伴って気晴らしのウォーキングに出かけました。

 

娘は目下就活中なのですが、なかなか自分の思うような結果が得られず、連休前からやや落ち込んでいました。家族の中で一番のムードメーカーが暗い顔をしていると家の中の空気も重くなってしまいます。

 

もともとポジティブで勝気な性格の娘なので気持ちの切り替えは早いはずなのですが、未だに一時面接を通過できた会社が無く、どこが悪いのかも分からずに悶々としている様子でした。

 

私としては、就活生の娘に親があれこれと口を挟むのはよろしくないと考えたのと安易な励ましの言葉はかえって逆効果と思い、これまで娘の就活を静観してきました。

 

一方の妻は、子どものことが心配で放っておけない性分なので、エントリーシートの書き方から手取り足取りで娘をサポートしいて、どちらが就活しているのか分からないほどの熱の入れようです。

 

それほどに熱心に取り組んでいるのに成果が上がらないとなると、何かに当たりたくもなります。娘は妻に教え方が悪いと悪態をつき、妻は人の話を聞かないと娘を詰り、しばらく険悪なムードが続いていました。

 

そんな中でのゴールデンウィークだったので、私としては、せめて母の日までに母子の仲直りが出来ればと思っていたところでした。

 

ウォーキングと地ビール

その日は少し遅めの朝食を摂った後、娘をウォーキングに連れ出しました。五月の風が爽やかに吹く散歩日和の日でしたが、マスクをして少し速足で歩いているとすぐに汗ばんできます。

 

家から片道一時間のところにある大きな神社をゴールにして、そこでお守りでも買ってから帰りに地ビールのブリューワリーで喉を潤すことにしました。

 

道すがら娘との会話は弾んだものの、肝心の就活の悩みに話題は移りません。そんな話を私の方から振るのもわざとらしいので、娘が私に話をしたいのであればそうすれば良い - その程度に考えておくことにしました。

 

私の頭の中では、この時期に少し苦しい経験をするのも娘にとってはプラスになるのではないかと言う考えが過りました。そんなことを妻に話したら顔を真っ赤にして叱られてしまいそうですが、娘はこれまで藻掻くような苦労や挫折を味わわずに来ていました。

 

帰国後は帰国子女枠で中高一貫校編入したため高校受験の経験がありません。大学も担任の先生の大反対にも拘らず第一志望の学校を受け運良く合格してしまいました。合格したこと自体は親としても喜ばしいことではありましたが、その一方で、このようにトントン拍子に物事が進んでしまうことに対して、娘がいつか壁に突き当たった時に乗り越えることが出来るのかと言う不安を覚えたものです。

 

子どもが苦しむのを喜ぶ親はいないのでしょうが、私としてはやはり、若い時の苦労はしておくべきだと言う思いがあります。

 

運良く事が運ぶこともあれば、何をやっても結果が伴わないこともあるのが人生。そこで自分の理想や希望と現実とのギャップにどのように折り合いをつけるのか - 自分の子供たちには是非ともそのようなことを学んでほしいと思っていました。

 

今の娘はまだ、「努力は必ず報われる」が自らの経験則になっているのでしょうが、そうでは無い時が来ることを出来るだけ早く知ってもらいたいと願っているのです。親が子どもの失敗を望むと言うのは奇異に聞こえることと思いますが、成功体験と同じくらい失敗体験は良い教訓になると言うのが私の経験則です。

 

結局、神社の参拝よりも地ビールが目的のウォーキングになってしまいました。お店がほぼ貸し切り状態だったこともあって、つい長居をしてしまいました。妻は私が娘を連れ立って出かけたので、就活の相談に乗ってくれるものと期待していたそうですが、ほろ酔いで帰宅した二人を見て呆れられてしまいました。

 

妻が文句を言うとおりあまり就活の話は出来ませんでしたが、私から娘には、自己PRにしても志望動機にしても、覚えたセリフを読み上げるようなことはせず、訥々としていても構わないので自分の言葉で話すことだけを伝えました。

 

私はかつて勤め先の採用活動の手伝いをしたことがありますが、会社訪問でやってきた就活生と話をしていると、マニュアル本通りの受け答えはしっかり出来ていても自分の言葉を持っていない人が結構多く見受けられました。

 

面接のための想定問答を練っておくのは必要なのでしょうが、志望理由や希望する職種を考える時に、いかにも取って付けたような説明は簡単に見透かされてしまいます。そうならないためには、働く目的や自分にとっての働き甲斐などの根本的なところを自分に問いかけておく必要があるのです。

 

かく言う私ですが、自分が就活生の時にはそんなことなど全く考えずに今の会社に就職してしまいました。もっとも当時と今とでは時代も違うので、もし、あの頃の私が今就活をしていたら全滅かもしれません。自分が就活生だった頃の話を正直に話したら、娘からは「説得力無し」と怒られていたことでしょう。

貯められないもの(2)

見えなかった有難み

この二年間で私が痛切に感じたのは健康であることの有難みです。食事を美味しく頂いたり、散歩に出かけたり、あるいはつまらないことで頭を悩ませるのも心身ともに健康であってこそ出来ることです。

 

妻はリハビリ勤務を始めてから表情が明るくなりました。張り合いややりがいは生きるための原動力なのだと言うことを改めて感じました。妻はまだ治療中の身でもあり、疲れの出ないようにしなければならないので、頑張り過ぎないよう私が見張り役になっています。

 

どんなに気をつけていても、予期せぬ病気や怪我に見舞われることは避けられません。私が出来るのは、日頃から摂生に努めるのはもちろんですが、健康でいられることに感謝することだけです。

 

私たちにとっての健康は、今まで当たり前過ぎて感謝することすら忘れてしまっていたものの一つですが、そのようなことに気づかされると、今まで見えなかった有難みが見えるようになってきます。

 

そのうちに

私にとってもう一つ感謝しなければならないものは時間です。今でこそほとんど毎晩家族四人で食卓を囲み、夕飯の後は他愛無い話に花を咲かせることが当たり前になりましたが、20代から30代頃の私にとって家族で食卓を囲むのは週末くらいでした。

 

平日は帰宅しても娘たちの寝顔を見るだけ。せめてその穴埋めをしたくて週末は出来るだけ娘たちとの時間を大切にしようと心がけていましたが、今になってみれば、そのような時間の使い方しか出来なかった自分を恥じる気持ちがあります。

 

かつての私は、時間に追われる毎日を過ごしている中で、そのような生き方に疑問を感じていても深く考えることを無意識に避けていたのだと思います。時間が無いことを言い訳に家族との貴重なひと時を蔑ろにしてきたのでした。

 

家に帰ればいつでも自分を待っていてくれる家族がいる。それを当然のことと考えていたために、家族との時間は、“そのうちに”、“仕事が落ち着いたら”いつでも作れると、自分に嘘を吐いてきたのでした。

 

一番可愛い盛りの娘たちともっと一緒にいられたら良かったのに、と願っても時間を戻すことは出来ません。自分のやりたいことや家族のためにしたいことがあっても、あの時の私には時間が無かったのです。何故なら、自分で時間を作ろうとしなかったからです。

 

会社員が稼げる生涯収入はたかが知れている。だからパイの切り分けが大事なのだと分かったようなことを言っていた一方で、もっと大切な時間の配分が頭からすっぽりと抜けていたのでした。

 

自分の部下が出来た時から、私は彼ら・彼女らにプライベートの時間を大切にするように言い続けてきました。かつての自分が出来なかったことを若い世代に言い聞かせても説得力はありませんが、それでも、あとに取っておけない時間だからこそ大切にしてもらいたいと考えていたことは確かです。

 

貯められないもの

自分や家族のための時間を大切にしようと思ったのは、妻の介護と自分の体調不良がきっかけでしたが、それは同時に自分の存在意義や役割を問い直す作業を伴いました。

 

いくらでも替えが利く会社の中での役割と家族の一員としての役割は、比べるものでも無く、無理に両立させなければならないものでもありません。自分の軸足がどこにあるのかが分かれば自ずと答えは見えてきます。

 

今、私の時間は家族中心に回っています。家族との時間を大切にするために、仕事をセーブさせてもらっています。それは、仕事の手を抜くのとは違い、手抜きにならないための前向きな選択だと私は信じています。そして、自分や家族のことをなおざりにしないための最善の策だと考えています。

 

仕事をセーブした結果、時間が足りないとボヤくことが無くなりました。ゆとりをもって仕事をこなせる状況であり、かつ、自分や家族のために十分な時間を費やすことが出来ています。

 

時間は取っておいたり貯めたりすることが出来ません。“そのうちに”とか“退職したら”と思っていても、その時には今の自分はいません。目の前にやりたいことがあるのならすぐに取り掛かるのが後悔しないための秘訣なのだと思います。

 

最近の私は時間が愛おしく思うことが増えました。これまでは、 - 特に仕事絡みで - 早く終わってくれないかとか、無駄な会議が永久に感じられることも多々ありましたが、自分が使いたいように使える時間は、いつまでも続いて欲しいと思えてきます。

 

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貯められないもの(1)

母の日

上の娘は今年で社会人三年目です。学生の頃は親の目から見ても心許ない娘でしたが、いざ就職すると仕事に対する責任感が芽生えたのか、会社員らしい雰囲気が出て来た気がします。

 

そんな娘も週末は疲れが溜まっている様子を隠し切れません。入社当初は目途が立ったら独り暮らしをすると“宣言”していた娘でしたが、今はそのような気配も無く、親としても娘の独立を急き立てる状況ではありません。

 

むしろ私としてはこの二年余りの間、家にいる時間が増えた分、今の家族の形が出来るだけ長く続くことを心の底では期待しているところがあります。いずれは娘二人が独り立ちする日が来るのでしょうが、もう少しだけ一緒に過ごしたいと思っています。

 

ゴールデンウィークの最終日は母の日でしたが、我が家では一日早く土曜日を母の日にしました。少しばかり夜更かしをしても次の日が日曜日なら時間を気にせずに過ごせるからと娘たちからの提案でした。

 

昨年は、抗がん剤の副作用のために妻の体調が思わしく無く、母の日を“延期”していましたが、その後タイミングを逸してしまい有耶無耶になってしまっていたので、今回は二年ぶりの母の日です。

 

二年ぶりだから盛大にと言うことは無く、いつもの我が家どおりケーキとワインを楽しみました。妻はまだ治療中と言うこともあってほんの少量をゆっくり味わっていましたが、娘二人は私たちの子供らしく豪快な飲みっぷりを披露しました。

 

私も娘たちにつられて、久しぶりの夜更かしをしてしまいました。世の中の自粛ムードは一時期よりも緩んできた感がありますが、我が家は妻の手前、自制した生活を継続しています。そんな中でたまに羽目を外す程度なら大目に見てもらえることでしょう。

 

生活力

ゴールデンウィークの最終日は下の娘と近所のスーパーに買い物に出ました。ここ一年近く、別のスーパーの宅配サービスを利用していて、足りない食材だけ買い出しするようにしていました。宅配サービスでは必要な物のみを購入することになるので、無駄な出費を抑えられると考えたからでした。

 

たしかにそれは正解だったのですが、スーパーでの買い出しでも、予め買い物リストに書いた物以外は買わないと決めてしまえば同じことだと今さらながら気がついたことと、商品の単価を比べると買い出しの方が割安なので、最近は週に二回ほど食材や日用品の調達に出ることにしています。

 

 

買い物をしていると物の値段に敏感になります。一回あたりの予算でどのくらいの食材を買うことが出来るのかが分かります。割高になっている食材は買い控えて代用品を探したり、予算内で調達した食材で作れる献立を考えたりと意外に頭を悩ませるものですが、生活力を養うためには良いトレーニングになります。そのため、買い物は家族交代で行なうようにしています。

 

“生活力”と言うと、収入の方に目が行ってしまいがちですが、私たち夫婦の場合は、毎月、そして一年を通じてのランニングコストを如何に自分たちの身の丈に合わせるかを考えます。

 

会社員の生涯収入はたかが知れています。自分たちが一生のうちで必要なものに優先順位をつけて“収入のパイ”を切り分けて行く一方で、日々の生活に要する固定費をどのように抑えるかを考えれば、お金の使い方は自ずと定まってきます。

 

支出を切り詰めることが自分や配偶者にとって大きな負担になってしまうと、生活に潤いが無くなり息が詰まってしまいます。だからこそ“メリハリ”が肝心で、自分が本当に必要とするものを見極める目が“必要”になります。

 

隣人や知人に対しての見栄や対抗意識が捨てられなかったり、無駄な付き合いを止められなかったりすれば、不要で無用なことにお金を費やすことになってしまいます。自分にとって必要なものの絞り込みと優先順位付けによって、お金の出口は思いの他容易にコントロール出来るものです。

 

また、定年間近になってから慌てて老後生活を見据えたダウンサイジングに取り組むのではなく、思い立った時から自分に相応しいと思える生活を送れるように意識を変える方が楽です。ライフスタイルの習慣化にはそれなりの時間が必要になるので、ストレス無く変化を受け入れるには順応するための時間は長いに越したことはありません。

 

お金に不安を感じる人は、きっとどれだけ蓄財しても満足することは無いと思いますが、パイの切り分けと身の丈にあった生活を知ることによって、お金のために生きることは無くなるのではないかと考えます。

 

結局は、お金はどれだけ溜め込んでも安全装置にしかならず満足感を与えてくれるものではありません。お金は使い道とタイミングで価値が決まるものだと思います。

 

下の娘が就職すれば、妻と私の親の務めは終わります。いずれまた夫婦二人だけの生活に戻ることになるのでしょうが、その先にあるのは時間に対する不安です。(続く)