和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

雑談も仕事のうち?

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雑談せよ

私の勤め先では、昨秋辺りから各部での「コミュニケーションタイム」を奨励しています。「コミュニケーションタイム」とは、何ということは無い、部の人間同士で雑談をするだけのことです。

 

在宅勤務が主流となり、オンラインの打ち合わせや会議以外、同僚と話すことも少なくなりました。そのため、部内の人間同士で雑談をすることで、組織内の風通しを良くしようと言うのが目的だそうです。

 

もっとも、私の部を含めいくつかの部署では、在宅勤務開始以来、オンラインでの始業ミーティングなどを行なって、部員の様子に変り無いか気を配っており、私としては、改めて雑談のために時間を割くことによるメリットには懐疑的でした。

 

また、私個人が人事部のやり方をあまり快く思っていなかったことも、コミュニケーションタイムに今一歩賛同できずにいた理由だったのかもしれません。少し前まで人事部は、残業時間が減らない原因を就業時間中の私語が多いせいにしていました。それが、在宅勤務が始まると、今度は社員に雑談せよと言っているのです。働いている側からすれば、さっさと仕事を終えてプライベートな時間を充実させたいと思っているはずで、半ば強制的に“雑談タイム”を挟み込むことを喜ぶ者などいないと考えていました。

 

とは言え、これに目くじらを立てて逆らうほどのことでもありません。コミュニケーションタイムをどのように実施するかは、各部に任されていたため、私の部では試行錯誤を経て、各人が週の頭にグーグルカレンダーに、1回15分の“雑談タイム”の予定を入れて、話したい相手を招待することにしました。最初はグループミーティング形式での雑談を試してみたのですが、ほとんど会話に参加しない者が固定化してしまったため、しばらく後にマンツーマン方式に変更したのです。

 

これにより、グループ方式では会話に参加しなかった者も、1日少なくとも1回は誰かと雑談することになり、また、誰かから雑談相手として招待されることもあるため、おおよそ3週間足らずで部内の全員と話をすることになります。

 

他方、私は、コミュニケーションタイムに乗り気で無い者が少なからず存在するのではと考えていました。日々の雑談タイムが負担になってしまうことは私の本意ではありませんでしたので、部員には、どうしても仕事以外の雑談が苦痛な場合には申し出るように伝えてありました。

 

いずれにしても、雑談を義務と受け止められてしまうと、部内の人間関係が硬直化してしまう危険もあります。雑談するためのルール作りと言うのも変な話ですが、大所帯で何かを行なう場合には、それなりの枠組みが必要なのです。

 

真面目な雑談

それでも、これまで落伍者を出さずにコミュニケーションタイムを続けて来られたのは、私と二人の課長が出しゃばらずに、若手・中堅のやりやすいように任せたからだと思っています。グループ方式からマンツーマン方式に変更したのも、数人の部員から、できるだけ雑談を楽しめるようにとの提案があったためです。また、上席者からはコミュニケーションタイムの招待は出さないと言うのも若手からの提案に従ったものでした。

 

私としては、たかが雑談であり、上から招待を受け取ることをそれほどまで警戒しなくても良いのではないかとも思いました。ところが、ある部員が言いました。「いくら雑談とは言っても、いきなり話を振られたら言葉に詰まってしまうかもしれないので、雑談の準備をさせて下さい。準備が出来次第、お誘いします」。

 

“雑談の準備をしたい”とは、ユーモラスでありながら、若い人の几帳面さを反映させたユニークな表現です。彼らにとっては、雑談も仕事も真面目に取り組むべきものなのでしょう。

 

しかし、当初は緩い話をするだけのものでしたが、やがて、一部の部員がプレゼン資料を作って豆知識などを披露するようになりました。しかも、誰かが準備周到な“雑談”を行なうと、そこに暗黙の競争意識が働くことにもなります。

 

コミュニケーションタイムの進め方は、当事者に任せることにしていたものの、雑談が雑学披露の場になり、プレゼン資料は競い合うように凝ったものになって行きました。たかが1回15分の雑談のために、仕事の合間を縫って雑学を仕入れたりプレゼン資料を作ったりするのでは、雑談の域を超えて業務の一環になってしまいます。

 

ある日の始業前ミーティングの場で、私は、コミュニケーションタイムで“良い雑談”をしようとか、上手く話そうなどと気を遣うことは不要であることを部員に伝えました。

 

気ままな話をするのが雑談で、間を持たせるためにわざわざ“ネタ”を仕入れるようなものでは無いこと。むしろ、相手の言葉をキャッチして、自分の思っていることを返すことに専念してくれれば良いと説明しました。当意即妙に気の利いた言葉を発する必要もないのです。雑談に成功も失敗もないのですから。

 

他愛の無い話ができること

雑学タイムが元の雑談タイムに戻り、仕事の合間に同僚と“お喋り”をすることが、気分転換や息抜きになると言う声が部の中からも聞こえてきました。出社している時は、隣の席の者同士、他愛の無い話に花を咲かせていたのです。

 

もっとも私は、毎日出社していた頃、部員の仕事ぶりを気にはしても、一人一人時間を取って話をすることなど出来ませんでした。たとえ1日のうち短時間でも、そして、2~3週間に1回でも直接部員の声を聞くことで、各部員の人となりを良く知る機会が得られたと考えます。そういう意味では、当初私がコミュニケーションタイムに懐疑的だったことは誤りでした。

 

今、仕事が暇になった私は、ようやく自分からコミュニケーションタイムの招待を出せる立場になりました。毎日何人かと近況報告や他愛の無い話をするのも悪くはないと思えるようになりました。

リタイア準備とのんびり休日

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緊張感からの解放

去年の後半から手掛けていた大きなプロジェクトが一段落して、今月初めに私は部長の職を解かれました。妻の闘病生活が始まり、管理職の仕事を終わりにしたいと会社に伝えてから半年近く経ち、ようやく肩の荷を下ろすことが出来ました。

 

つい先月までの、時間がいくらあっても足りない状況では、仕事前に掃除や洗濯を済ませ、始業と共に仕事に取り掛かり、打ち合わせや上への報告をこなしていると、あっという間に日が暮れてしまいます。

 

幸い、娘たちがいてくれたおかげで家事が滞ることはありませんでしたが、仕事の忙しなさがそれで軽減されるわけでは無く、階下で臥せっている妻を気にしながら仕事をするのは、精神的にあまり良い状況とは言えませんでした。

 

先々週、部内の各担当にプロジェクトの総括を指示して、私の部長としての仕事は終わりました。最後に手掛けた仕事は、残念ながら成功したとは言えず、管理職としての有終の美を飾ることは出来ませんでしたが、これも私らしい終わり方なのだと思いました。

 

その総括には私も一関係者として加わり、自分なりの振り返りをすることにしているのですが、それから10日ほど過ぎても一向に仕事に集中できない日々が続いています。パソコンの前に座り、古い資料に目を通していても、気がつくと頭の中では仕事とは無関係の雑念が次から次へと浮かんでは消えて行きます。

 

思うに、忙しい時の方が、限られた時間を有効に使っていた気がします。日々何かの対応に追われ、雑念の入り込む余地などありません。時間が無いことで自分を追い込み、仕事に集中することが出来たのでした。

 

それが、ある日を境に両手に余る仕事が消え失せてしまうと、有り余った時間の使い道に困ってしまう事態となりました。任された仕事はあるにはあるのですが、今日明日を争うものではありません。今までの慌ただしさの反動からか、仕事に対する緊張感を維持できなくなってしまいました。

 

今、自分の心の中は、業務目標や組織目標といったプレッシャーから解放され、ようやく愁眉が開いた安堵感が9割9分を占めています。残りの1分は、仕事のモチベーションをどこに求めるかと言うかすかな不安です。

 

会社人生の終活の中で、自分が会社に貢献できることが残されているかを考えて行きたいと思っています。もし、それが見つからなければ、それが私のリタイアのタイミングなのでしょう。

 

のんびりの意味

先週末、暇になってから初めての週末を迎えましたが、とても不思議な感覚を味わいました。

 

これまでは、金曜日の夕方には、週末を迎えるちょっとした“高揚感”みたいなものを覚えるものの、いざ週末になると、たとえ家族との時間を楽しんでいても、頭のどこかで仕事のことを考える自分がいました。土日は仕事をしないと決めていたにも拘わらず、仕事のことが頭を過るとは、職業病以外の何物でもありません。そして、日曜日の夕方を過ぎると、翌日のことを思い気分が重くなってしまうのです。そんなことを30年近く繰り返してきました。

 

これまでの週末は、時間がもったいないと、折角の余暇すら何かに追い立てられるようなスケジュールで動いていました。ところが、先週末は、時間をかけて読書を楽しんだり、妻と昔のアルバムを広げたりと、久しぶりにのんびりと過ごすことが出来ました。仕事の意思決定の責任もありませんから、週末に会社関係のメールをチェックする必要もありません。

 

今までの自分からしてみれば、ぜいたくな時間の使い方です。しかし、私が本当に欲しかったものは、自由な時間よりも真に寛げる環境だったのです。いくら長い休暇を取って、素敵な観光地に旅行に行ったとしても、頭のどこかで仕事のことを考えざるを得ない状況であれば、心から休息を楽しむことなど出来ません。完全に仕事を遮断し、オフを楽しめる状態を作り上げることこそが重要なのだと改めて感じました。

 

何でもない月曜日

私にとって最大の驚きは、日曜日の夕方になっても心が穏やかだったことでした。仕事が嫌いだったのか、会社が嫌いだったのか、責任を負わされるのが嫌いだったのか。そのどれもが、理由として少しずつ当てはまるのでしょう。長い間、月曜の朝は気分が陰鬱で、それは前の晩から引き摺ってきたものでした。

 

ところが、先週の日曜日は夕飯の準備をしていても、食後に家族と話をしていても、一向に気分の落ち込みがやって来ません。もちろん、そんなものを心待ちにしているわけでは無かったのですが、毎週日曜日の夕刻に訪れるグルーミーマンデーのお化けが、予期せず姿を消してしまいました。

 

私は、何かに追われているような不快感の無い、完全なオフを楽しめる休日を手に入れることが出来ました。そして、月曜日は単に日曜日の次の日となりました。今まで嫌いだった月曜日が普通の日になったことが私にとっては、大きな喜びとなったのです。

転職志願 群れから個へ

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プレゼンマシーンの本音

昨年の春まで私の部下だった社員が会社を辞めることになりました。このご時世、退職の挨拶に社内を回ることは出来ないので、残念ながら彼とは顔を合わせることなくお別れとなりました。私は彼から届いたメールに、月並みなはなむけの言葉を添えて返信しました。私はこういう時に気の利いた言葉が頭に浮かばず困ります。

 

このタイミングで会社を辞める決断をするのは勇気のいることだと思います。少し前であれば、転職先の選択肢も少なくなかったはずです。とは言え、会社がこの一年間新しい事業を展開することなく、経営陣も今後のビジョンを社員に示せない状況が続く中、彼のように自ら新しい道を模索する若者が出てくるのも心情的には理解出来ます。

 

私の返信メールに対して、すぐに彼からもう1通メールが届きました。新しい仕事は進学塾の講師とのこと。彼曰く、自分の言葉で話せる仕事に就きたかったと言うのが転職先を選んだ理由とのことでした。「自分の言葉」。私には思い当たる節がありました。“節”どころか、彼が本当に求めていることを知っていました。

 

当時入社6年目の彼は、部の中で一番の下っ端でした。情報収集や会議用の資料作成を任される傍ら、部内の雑用もそつなくこなしていました。経費節減の折、部内のサポートスタッフを削られ、若い社員にそのしわ寄せが来ましたが、彼は文句ひとつ言わずにコツコツと仕事に励んでいました。

 

彼の作るプレゼン資料は、非常に完成度が高いものでした。幹部会や役員会で使う資料を部内でレビューする時には、彼にプレゼンをしてもらっていましたが、その話しぶりは堂に入っていて、説明者としても申し分ありませんでした。

 

しかし、私には少し気がかりなところがありました。それは提案力でした。上からの指示や方向性を示せば、資料を作ることにかけては文句の付け所が無いのですが、それ以上のものが出てこないのです。言われた仕事はきちんとこなす一方で、現状を改善しようとか、何か新しいことに取り組もうと言う前向きなものが感じられない。自分の仕事に関心が無いのでは、と疑いたくなってしまうほど淡泊なところが私には引っかかっていたのでした。

 

興味の持てない仕事を続けるよりは

昨年の3月、彼の上司である課長から相談を受けました。ちょうど、期末の面談の時期。部下は面談シートに担当業務の自己評価や将来のキャリアなどを記載し、それを基に面談を行ないます。ところが、彼の面談シートはほとんど白紙に近い状態でした。そして、その面談の席で、彼は退職の希望を出しました。彼を有望な戦力として買っていた課長のみならず、私も驚きを隠せませんでした。

 

その前の年の面談シートには、彼らしい几帳面な文字が並んでいました。課長は、前年の面談では、彼に特段変わった様子は無かったと言います。私は、彼に余計な負荷はかけたくなかったのですが、直接面談することを提案しました。

 

広い会議室、私と課長、そして彼、十分な距離を置いて席に着きました。彼は、部の方針に沿った資料を作ったり情報を集めたりと努力をしてきたこと、しかし、仕事そのものにどうしても興味が持てず、自分なりのアイデアを出すとか、業務の課題を見つけることが出来なかったことを一気に話すと、私の反応を窺いました。

 

私は、彼の仕事ぶりを十分に評価していることや、焦らずに経験を積むことで発想の幅も広がってくることを話ましたが、その途中で、彼の辞意が固いことを課長から聞かされていたのを思い出しました。ここで無理に引き留めを試みても、彼を翻意させられないばかりか、悪い感情を抱いたまま物別れになる可能性の方が高いと感じました。彼が快く面談に応じてくれたのも、すでに自分なりの結論が出ていたからなのだと思いました。

 

私は彼に、転職の当てはあるのか聞くと、これから探すと言います。何がしたいのかを聞くと、分からないと言います。次の言葉を選ぼうとする私を彼が遮りました。

 

彼は、仕事が嫌だと言うよりも組織の中で働くのが自分には向いていないのだと言いました。大人数の中で周囲に気を配り、良い後輩、良い部下を演じることが苦痛なのだと。同僚との雑談すら疲れてしまうのだそうです。誰にも気を遣わず自分のペースで生きて行きたいと言うのが、会社を辞めたい理由なのだと言います。

 

己の“個”を殺して組織の中に埋没していく自分が我慢ならない – 私は彼の言い分をそういうことなのだと理解しました。

 

自分らしさを保つための道

専門知識の習得や仕事のスキルアップは、個人の努力次第で何とでもなりますが、組織の中で良好な人間関係を構築することや、企業文化を自分の中に受け入れることは思いのほか大変なものです。ましてや、生真面目な人間にとって、バックグラウンドや考え方の異なる様々な人間の中で仕事をすると言うのは、人並み以上に神経を擦り減らしていたのかもしれません。

 

彼の場合は、「自分の本来の姿とは違う自分を職場で演じることに疲れてしまった」と言うことなので、仕事の上で周囲からの同調圧力などがあったわけでは無いと思います。しかし、自分の本心とは相容れないある種の違和感を払拭できずにいたのであれば、彼にとってこの会社は、少なくとも最上の仕事場ではなかったのでしょう。

 

誰しも、多少の違いはあると思いますが、職場では違う自分を演じていると思います。本来の自分を出すことを抑え、自分らしくない振舞いをして、会社での自分を保つこと。それが群れの中での処世術なのでしょうが、本来の自分らしさを大切にするためには、群れから離れるより他は無いと言うのも理解できるような気がします。