和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

飾らない生き方

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掃除と断捨離

どこのご家庭でも同じだと思いますが、我が家では、例年、年の瀬が近づいてくると少しずつ家の中の片づけを始めて、年末の大掃除でクライマックスを迎えます。しかし、今年に限っては、ステイホームの期間に家族総出で大掃除を済ませてしまいました。また、在宅勤務が多かったことから、平日の掃除の頻度も上がり、これまでに無く家の中が整頓されています。

 

半年余りの間、在宅勤務を始める前までに掃除や洗濯を終わらせることがスケジュール化してしまったので、家の中が片付いていないと何となく落ち着きません。私も妻も人生の後半に差し掛かって、ようやく良い習慣が身につきました。

 

ステイホーム中に、もう一つ思い切って行なったのが、断捨離です。三年前に家の引っ越しをした際にもかなり整理したはずなのですが、それ以来、思い切った断捨離は行なっていませんでした。一年間袖を通さなかった服は来年も着ることはないだろうと、思い切って処分すると、クローゼットが見違えるように広くなりました。おしゃれをしたい年頃の娘たちはさておき、私と妻は年を追うごとに新しくものを買うことが少なくなり、タンスの引き出しの中もかなり余裕が出てきました。

 

結婚当初から、ある時期までは、私も妻も、あれが欲しい、これが欲しいと、いろいろな目標を決めてつもり貯金をしていましたが、不思議とそのような物欲は、歳を重ねるに伴い失せてしまいました。あれほど欲しがっていた物への執着心が無くなってしまったのは、その心地良さを知ったからなのだと思います。

 

私も妻もミニマリストを標榜するつもりはありません。“意識的に”というよりも、身の回りを出来るだけ簡素に保っておきたいと言う気持ちが先行して、年々新しく購入するよりも、処分する物の方が上回っているのです。

 

飾らない生き方

私は若い頃、物への執着心に囚われていた時期がありました。学生時代は、アルバイトでお金を稼いでも、そのほとんどは学費と生活費で消えてしまい、自分の自由になるお金が手元に残りませんでした。それが、就職して学生時代よりも収入が増えると、お金を使うこと自体が楽しみに変わりました。

 

就職後間もない頃は、同僚との付き合いで散財したり、スーツや靴、腕時計と、上司や先輩社員の服装を真似て、ビジネスマンとはかく有るべきと勘違いして、それにお金をかけていました。

 

結婚後は、野放図にお金を使うことは無くなりましたが、それでも、仕事着や外出する時の服装のためにお金をかけることは止まりませんでした。

 

しかし、ある時、そのような買い物の仕方に急に嫌気が差しました。これまで買い溜めてきた服や身に着ける物が、「これは自分の趣味では無い」と気がついたのです。自分のしていることが、周囲の目を気にするためだけの浪費だと思った瞬間に熱が冷めてしまいました。

 

それと同時に、物欲もほとんど無くなりました。それまで「欲しい物リスト」に連ねていた物が、年を追うごとにリストから外れて行きました。若い頃からお金を貯めて、いつか買おうと思っていた物は、いざ手が届く頃になると、輝きを失ってしまったのです。

 

思えば、私が欲しいと思っていた物は、知り合いが持っているからと言う単純な羨望や、すぐに手に入れられなかったから“欲しい”と思っていただけだったのかもしれません。

 

また、いろいろな物を欲しがっていた自分は、仕事のストレスや手元のお金が少ないことへの不安を解消するために、自分が欲しいと思っている物 – 本当に欲しいと思っていたかはともかく – への執着に走らせたのだと考えます。

 

今振り返って、良かったと思えることは、当時、自分の物欲に任せて欲しい物を買い漁るような真似をしなかったことです。スーツや靴は仕事で使うものなので、自分の分には似つかわしくないものでしたが無駄にはなりませんでした。しかし、当時の「欲しい物リスト」に名を連ねていた品々は、今手元にあったら、間違いなく断捨離の対象になっていました。

 

飾らない生き方とは、流行を追ったり、他人が持っているものを欲しがったりせず、自分の心地良さを追求するものなのです。

 

無駄遣いの教訓

その一方で、私も妻も、娘たちには断捨離の無理強いはしないことにしています。さすがに部屋の片づけはするように言いますが、彼女たちが自分で稼いだお金で買うものについてまで干渉はしません。後になって、「なんて無駄なものを買ったのだろう」と思う日が来ても、それもまた勉強。彼女たちが、私たち両親の生き方に共感すれば、同じようなライフスタイルと価値観を受け入れることになるでしょうし、あるいは、別の生き方を模索するかもしれません。全ては自分次第なのです。

 

子どもが無駄遣いをしないように諭すことも親の務めなのかもしれませんが、私たちはあえて、娘たちが自分自身でお金との付き合い方を学んでほしいと考えています。無駄遣いを体験してみなければ、それが“無駄なこと”だと分かるようにならないからだと思うのです。

好機を見つける目

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こんなはずじゃない現実

数か月前のステイホームの期間中、テレビではひと昔もふた昔も前のドラマを再放送していました。私も妻も、普段テレビに噛り付くことはしないのですが、かつてヒットしたドラマをわざわざ録画してまで見てしまいました。ドラマそのものの面白さもさることながら、当時の自分たちの姿と重ね合わせて、遠い過去を懐かしむことができました。

 

歳を取ると、折に触れ過去を振り返ることが多くなります。バブル期に大学生だった私は、卒業して就職すると、トレンディードラマの中のような生活に手が届くと夢想していたこともありました。恐らくその頃が、一番大きな希望を抱いていた時期だったのでしょう。

 

しかし、現実はそう甘くは無く、しかも、就職前夜にはバブルが弾けてしまい、右肩上がりの会社人生と言う夢は、そのスタート時点で“夢のまた夢”になってしまったのでした。金融機関に就職した同級生の中には、勤め先が倒産し、路頭に迷う者もおりました。今と違って転職のハードルは高く、新入社員に毛の生えた程度の経験では、次の職場を探すことは容易なことではなかったようです。

 

人生、「こんなはずじゃなかった」と嘆く瞬間が何度かありますが、今年はまさに多くの人にとってそのような一年になったのではないでしょうか。昨年の今頃は、オリンピックへの期待と盛り上がり、海外からの訪問客、海外旅行者の増加など、先行きの明るさを予見するような話で溢れていましたが、たった一年足らずの間に、私たちの生活を彩っていた鮮やかな背景は霧消してしまいました。「こんなはずじゃなかった」。でもこれが現実であることに間違いないのです。

 

 

初心に帰ることを邪魔するもの

勉強でも仕事でも、理想を高く持つことは悪いことではありません。理想を高く持ち、成功体験を重ねていければ、それが、さらなる高みを目指すための大きな糧になることは間違いないでしょう。

 

中には、夢や理想に固執してしまい、自分の置かれている現実を見ることが出来なくなっている人がいますが、多くの人は、高い理想に現実がついて行かないことを比較的早い段階で知り、どこかで折り合いをつけることがほとんどです。そうすることによって、自分の別の可能性を発見し、新しい理想を掲げて現実との帳尻を合わせようとするのです。

むしろ、中途半端に成功体験を重ねた後に、挫折を味わってしまった人は、理想と現実のギャップの大きさに苛まれることが多々あります。

 

私の勤め先には、役所から天下ってきた役員や幹部社員が数名おりますが、ほとんどと言っていいほど、役人時代の習慣を拭い去ることができず、民間企業で仕事をすると言うことを一から学ぼうとしません。役所での成功の方程式が、転職した先でも通用すると本気で信じているのです。また、余計なプライドを捨てられず、“商人”に徹することが出来ない。会社のために、では無く、自分のセカンドキャリアをどのように輝かせるかしか考えていないのです。

 

言葉には出さなくとも、「自分は役所を出されて、こんなところで働く人間ではないはず」と言う態度が滲み出てくるのです。しかし、考えてみれば、同期入省で事務次官や審議官になる者はたった一人。それ以外はある年齢に達すれば、退官を余儀なくされるわけですから、それを甘んじて受け入れるしかないのです。

 

人生の終盤近くまで成功体験を重ね、プライドを高めてしまった人間は、それを捨て去って初心に帰ることはなかなかできないのかもしれません。

 

塞翁が馬

私にも、何をやっても裏目に出てしまう時期がありました。仕事も家庭も、自分では努力しているつもりでも、何かが悪い方へ悪い方へ進んでしまう。そうなると、自分がやっていることが全て徒労に感じてしまいます。逆に、何が変わったわけでも無いのに、うまく事が運んでしまうと言う時期もあります。

 

そう考えると、人生は自分の努力とは違う領域で動いているのではないか、所詮努力することは無駄なことで、万事塞翁が馬なのかと思ったこともあります。

 

たしかに、その時置かれている状況が福となるか禍となるかは、誰にも予測できません。とは言え、全て運任せにして、何の努力もせずに宝くじが当たるのを夢見る人生を送るのが良いのでしょうか。ほんの少しでも運命に抵抗できるチャンスがあるのなら、そのための努力をすべきなのではないかと、私は思います。

 

ひたむきに努力を続けていても、万人に平等に好機が訪れることはありません。しかし、好機をものにできるか否かはその人にかかっています。折角の恵まれた機会が訪れても、それをものにできる準備を怠っていたら、目の前のチャンスを逃し続けることになるのではないでしょうか。

 

今自分の置かれている状況の中で、何ができるのかを考え続けることは、決して無駄ではありません。努力を続けること、初心を忘れないこと、そして、自暴自棄にならないこと。そのような謙虚な心さえあれば、好機の訪れを見逃すことは無いのだと考えます。

お金を貸してはいけない

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自分のお金にルーズな人間

私が大学生の頃、貸したものが返ってこない同級生 – あえて友人とは呼びません - がいました。本やCDを貸すと、こちらがしつこく催促しないと返ってこない。2度、3度とそのようなことが繰り返されると、そのような相手に自分の物を貸す気など起きなくなります。

 

社会人になって、同僚や上司と飲み歩く機会が増えると、飲み代を借りようとする者が現れます。私は会社に入ってから比較的早くに結婚したので、外で飲むにしても、自分の小遣いが飲み代の上限でした。小遣いが無くなれば、その月は誰から誘われてもつき合うことはしません。

 

ところが、同僚の中には、手持ちの金がないくせに飲みに行きたいと言う者がいました。しかも、事前にそのことを言わずに、店の会計をする段になってから財布が空だから貸してくれと、悪びれもせずに言うのです。しかも、方々から借金を拵えて、こちらが催促するまでお金を返さない。そのような同僚とは二度と付き合うことはしませんでした。私が“ケチ”なだけかもしれませんが、お金の管理がルーズな人間は最も信用できない、と言うのが私の経験則です。

 

飲み代であれば、金額も高が知れています。しかし、そもそも、自分で働いて稼いだお金の価値を知っている人間は、無闇に散財しませんし、不測の事態に備えて蓄えもしています。財布の中身も確認せずに、飲み歩いたり、衝動的な買い物が止められなかったりするのは、性格の問題では無く、病気です。

 

借金をしないと生活が回らくなってしまうと言うことは、生活レベルが自分に相応していないからです。そして、そのような相手にお金を貸したら、返ってくることなど期待すべきではないのです。自分のお金の扱いにルーズな人間が、他人に対して真摯な態度を貫くことなど無理な話です。

 

お金を貸してはいけない

私は一度だけ、大学時代の友人のためにお金を工面したことがあります。当時、結婚して2年目か3年目だったと記憶していますが、その友人から突然会社に電話があり、アパートの更新料が払えずに困っていることと、知り合いを方々回って借金の申し込みをしては断られていることを聞かされました。「1万でも2万でもいいから」。切羽詰まった友人の声から、冗談では無いことは分かりました。

 

他の友人に探りを入れたところ、大学の同級生で親しくしていたグループの間では、その友人がお金を借りに回っていることは知れ渡っていました。私自身は、その友人とはそれほど親しい間柄では無かったことから、仲が良かった他の友人達から断られ続けた挙句に、私のところに来たのだと理解しました。

 

私も決してお金に余裕があるわけではありませんでしたが、初心な私は、友人が困っているのに手を差し伸べないなんてできないと思い、何とか応援できないか妻に相談しました。

 

妻は私の話を聞くと、「そんな理由で友達に借金を申し込むなんて怪しい」、「身内や自分の勤め先からだって借金はできるはず」、「貸したら絶対に返ってこない」と、畳み込むように言いました。私は妻の最後の言葉にカチンと来て、それほど親しいわけでは無かったにも拘わらず、友人のことを「あいつはそんな奴じゃない」と反論しました。

 

結局、妻は私の小遣いの前借りと言う形でなら、友人にお金を貸すことに同意してくれました。そして、もう一度最後に「絶対に返ってこないから」と一言。

 

負け惜しみ

私は、友人に2か月分の小遣いに相当する金額を“援助”しました。当時私が何を考えていたかと言うと、妻と言い合いになった後、冷静さを取り戻すにつれ、妻の言っていることの方が正しいのではないかと思うようになったのでした。一方でそれを否定する自分もいました。

 

友人に対して猜疑心と信用したい気持ちが綯い交ぜになった私は、彼に対して、お金は取っておいてもらって構わないから、友人関係はこれで終わりにすることを一方的に伝えました。

 

もし、友人が私との関係を大切に思うのであれば、私がたとえ返済不要と言っても、お金を返してくるでしょう。私はそう期待しました。

 

ところが、妻の予想どおり、友人はその後お金を返してくることはありませんでした。彼との関係はその程度のものだったのでしょう。もし、私が彼にお金を貸していたとしたら、それは期待どおりに返ってきたのでしょうか。私は、お金が返ってこなかったときの失望感を味わうことを避けていただけなのです。

 

妻は、この話に二度と触れることはありませんでした。私も妻に事の顛末を話したことはありません。何を言っても私の負け惜しみになってしまうからです。

 

私は以来、人にお金を貸すことはありません。お金のやり取りで嫌な気分に浸るくらいなら、その前の段階でしがらみを断ち切ってしまう方が楽だからです。