和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

虚飾と本心

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気になる他人の目

ほとんどの人は、多少の差こそあれ、他人の目を気にしながら生きているのではないでしょうか。出かける時に、「今日は何を着て行こうか?」と悩むのも、自分にあった服を着たいという気持ちもあるのでしょうが、それ以上に、誰かに見られても恥ずかしくない格好をしたいという意識があるからだと思うのです。

 

ちょっとゴミ出しというくらいなら、部屋着でもパジャマでも構わないのでしょうが、買い物に行くとなると、パジャマと言うわけにはいきません。会社に行くならスーツ、冠婚葬祭であれば礼服を着なければなりません。そのように、人はTPOによって服装を使い分けます。時と場所を弁えて行動するのが常識であり、常識を疑われるような行いは慎むべき、というように世間体を意識しています。

 

私たちは、“体面を保つ”ことを子供の頃から教え込まれてきました。体裁を整えられないと恥ずかしいと言う考えです。そして、それにお金をかけることに異を唱える人はあまりいません。

 

しかし、世間体も時代とともに変わります。些細なところでは、会社員の服装も、クールビズから始まり、通年ノーネクタイも珍しくなくなってきました。結婚に関連したイベントも堅実なものが増え、葬儀も家族葬が多くなり、最近は、“直葬”も増えてきています。

 

冠婚葬祭の簡素化の原因が、景気の悪化だけだとは思えません。そこには、世間体や常識だと教え込まれてきたものの中に、不要なものがあることを見分ける目が増えてきたことも、もう一つ大きな原因ではないかと考えます。

 

葬儀のためのお金を出し惜しむことは、ひと昔だったら罰当たりの誹りを受けかねませんでしたが、故人に長い戒名をつけてあげるこることや、立派な祭壇でお葬式を執り行うことが、最善の弔意の示し方かと言われれば、そうではなく、家族やごく親しい間柄の人々だけで心静かに故人を偲ぶことを選んでもいいはずです。大切なのは、故人に対する思いやりなのですから。立派なお葬式をあげないと“恥ずかしい”と言う考えもこれからは減っていき、簡素なこじんまりとした葬儀が主流になるのではないでしょうか。

 

普段の生活に話を戻すと、周囲の目を気にして、恥ずかしくない“それなりの格好”をするためには、それなりのお金がかかります。いつも同じ服では恥ずかしい、そろそろ散髪しないと恥ずかしい。アパレルや理容業界もリーズナブル志向のところが多く存在しますが、それでも、自分の外見を気にすればするほど、服装や髪形、お化粧に費やすお金も増えていきます。こればかりは、なかなかこれ以上の“簡素化”というわけには行かないのかもしれません。

 

見栄を張るためのお金

自営業でも会社員でも、商売相手に不快感を与えてしまうと、商機を失うことにもなりかねません。周りの人々に不快感を与えないための、最低限の身だしなみは必要だと思います。そのための出費であればやむを得ないでしょう。

 

しかし、人によっては、周囲に対して自分を大きく見せたい衝動にかられることがあります。他者からの羨望の眼差しに快感を覚えたり、ある種のステイタスに身を置くことに喜びを感じたりと言った場合です。実際以上に自分を良く見せたいと言う気持ちは、もはや“世間体云々”ではなく、見栄、あるいは虚栄心から発せられるものです。

 

世間で売られているものには、購入者の虚栄心をくすぐるものが多く見られます。いわゆる“高級”と名のつくものに、購買意欲をそそられる人は少なくないはずです。もちろん、「高くて良い品」 ‐ これだけの品質なら、このぐらいの値段がついて当然というもの - も世の中にはたくさんあります。しかし、その一方で、本来備わっている機能に比して割高なものも、同じくらい世の中に溢れています。

 

「高ければいいというものではない」と言うことは、頭では分かっていても、「こんな車に乗りたい」、「こんな高層マンションに住みたい」、「こんなバッグが欲しい」という“欲しい”の向こう側に、周囲から羨ましがられたい、妬まれたいと言う気持ちを抑え切れず、費用対効果を度外視した買い物に走らせてしまうことが、ままあると言うのも事実です。

 

見栄を張るための努力

人間に一流や二流という格付けはありません。「俺は一流の学校を出ているから、二流の学校しか出ていないお前よりも偉い」、とか、「一部上場企業に勤めているから、ベンチャー企業社員のお前よりも偉い」と、言葉に出さなくても、そういう態度に出る人がよくいます。そうでなくても、居酒屋などで店員さんに悪態をつく酔客などは、「店員なんかよりも客の方が偉い」という意識があるから、そういう態度が表に出てしまうのです。

 

学校や就職先を、「下に見られたくない」と言う思いだけで選んでしまった、と言う人もいるのではないかと思います。あるいは、自分のプライドを維持するために、常に見下す相手を探している、と言う人もいるのではないでしょうか。

 

交際相手も、「誰々の彼女・彼氏よりも自分の相手の方が、ルックスが良い、高学歴、高収入」という相手を探そうと努力するのは、価値観を共有するパートナー選びをしているのでは無く、アクセサリー選びをしているだけです。

 

車や家、装飾品。学校や勤め先、付き合う相手。自分ではないもので身を包んで見せても、それで自分の価値が上がるわけではありません。出身校や職業を鼻にかける者は、自身の内面の空虚さを自ら証明しているようなものです。

 

純粋な野心や希望では無い、見栄やプライドのためだけの努力で何が生まれるのでしょうか。

 

自分の胸に聞いてみる

自分が隠し事をしている時に、「自分の胸に聞いてみろ」と言われることがあります。隠し事では無いにしても、自分自身を一歩引いて内省してみると、「あれが欲しかった」、「これがしたかった」というのが、実は見栄のためであって、自分の本心では無かった、ということがあるかもしれません。

 

自分の本心に嘘をつき通すほど、辛いことはありません。背伸びを続けていた足が攣ってしまったら、そこでおしまいです。虚栄のためのお金や努力では、心を満たすことは出来ません。どんなに外観を綺麗に飾っていても、張りぼてで中身の無い建物には人は住めません。

当たり前のことに感謝 (2)

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「当然」な存在

自分にとって大切な人を「空気のような存在」などと言うことがあります。いつも自分の傍にいてくれて、困った時に頼りになる存在。いなくなって初めて大切さが分かる存在。そんな、“いるのが当然”の存在は、普段は文字どおり空気のように意識することはありません。

 

私の場合、空気のような存在をあえて意識するようになったのは、父の死に目に会えなかったことの影響が大きいと思います。亡くなって初めて、実の親に対して自分が心を開いていなかったことに気がつきました。妻とは結婚当初から、何でも話し合える関係を築くように努力していたにも拘わらず、自分の親に対しては一歩踏み出すことができなかった。その大きな後悔により、私は一層、妻や娘たち、そして老母に対して、空気のような存在だからこそ、そのありがたみを意識するようになったのです。

 

それは、相手が自分と一緒にいてくれることへの感謝、当たり前の存在が、当たり前に目の前にあることへの感謝とも言えます。でも、家族に対していちいち「ありがとう」というのは照れ臭いことです。照れ臭ければ、「サンキュー」でも、「メルシー」でも、「ダンケシェーン」でもなんでもいいのです。何か些細なことでも、相手が自分のため、家族のためにしてくれたことに対して、「あなたのしてくれたことが役に立っている、あなたがいてくれるだけで幸せだ」と言うサインを送ることができれば良いのです。

 

従属から主体へ

お世話になった人と、次はいつ会えるか分からないといった場面では、自ずときちんとお礼を言おう、とか、良い一日を過ごせるようにしようと考えるのではないでしょうか。

 

ところが、いつも傍にいてくれる、あるいは、離れていたとしてもいつでも話ができる、そんな近しい存在への感謝の気持ちは、普段は、それがあるのかすら意識することはありません。

 

思うに、私たちは一人前になるまで、親を始めとする大人たちの庇護の傘の下で育てられます。衣食住、教育の機会、娯楽・・・保護者が出来得る範囲で、様々なものを与えられ、生かしてもらっているわけです。

 

それに対する感謝の念は、いつ芽生えるものなのでしょうか。子供に対して、「感謝しなさいよ」などと、冗談交じりで言う親はいます。しかし、子供が心の底から親に感謝するようになるのは、親が期待しているよりもずっと後になってから、あるいは、子供に感謝されないまま一生を終える親もいるかもしれません。

 

子供が自発的に ‐ 親だけでなく、周囲の当然と思っていたことに対して ‐ 感謝の気持ちを抱くようになるのは、親から巣立ち、主体性を持って生きられるようになるだけでなく、自分がかつて、庇護者に従属していた存在であったことに気づくことが必要なのではないかと思うのです。

 

自分の行いに対する報酬

自ら考えて歩き始め、今まで当然であったことが、実は当然では無かったことに気づき、“当然のことへの感謝の気持ち”が湧いてくる瞬間。

 

そのような“気づき”が私に訪れたのは、すでに私が中年の域に達した後でした。それまで私は、自分の力だけで成り上がってきたと過信していました。親に対しては、半ば蔑む感情がありました。しかし、“今ある自分を当然のこと”と思えるようになるまで育ててくれたのも親であるという事実に、ようやく気づくことができました。それと同時に、親は私に感謝してもらいたいために私を育ててきたわけでは無いということを、心の底から理解できるようになったのです。

 

それまでは、妻に対しても、まだ幼い娘に対しても、家族のために働いている自分に感謝してほしいという感情が、常に頭のどこかにあったのですが、誰かのための行為に対する報酬は、決して感謝してもらうことでは無く、相手が自分の行為によって安心できたり、悩みを解決できたりした瞬間を見届けることなのだと思うようになりました。感謝してもらうことは、いわば“おまけ”のようなものです。「ありがとう」と言われれば、悪い気はしませんが、「ありがとう」と言ってもらうことを目的にしてはならないということです。

 

感謝はしても、感謝を求めない

「自分が役に立っていることを実感したい」。そう思うのは当然のことだと思います。しかし、それを“貸し借り”の話に貶めたり、金銭的な見返りを求めたりすることは、商売として報酬を受け取る場合を除き、すべきではないと考えます。

 

親しい間柄でのお金の貸し借りはすべきではない、と言われることがあります。親友に貸したお金が返ってこなかったら、信頼関係は崩れ、親友が親友で無くなってしまいます。お金が必要な相手をどうしても自分が助けたかったら、お金を貸すのではなく、お金をあげろとも言われます。

 

どんな場合でも、自分の期待が裏切られると、相手に対して失望や嫌悪の感情を抱くことになりますが、余計な期待を抱きさえしなければ、嫌な思いをせずに済みます。誰かのためにした行動も、相手からの感謝を期待して、それが裏切られてしまうと、不快な思いをしたり、相手に対する悪い感情を惹起したりと言うことにもなりかねません。

 

「相手に何も期待しない」。こう言うと、とても寒々しい感じがするかもしれませんが、決してそうではありません。“相手のために”と思っている行為が、本当に自分が相手のためだと思っているのか、そこにほんのわずかでも打算は無いのか、を自分自身の胸に聞いてみることが大事だという意味です。

 

迷っている人に道を教えて、お礼の言葉が無かったとしても、それであなたが不快な気持ちを抱く必要はありません。困っている人を助けようと言う無垢な気持ちから発した行為であるなら、その目的が達成されれば満足なはずです。

 

逆に、自分が助けてもらった時には、助けてもらった相手に、惜しみなく感謝の言葉を伝えては如何でしょうか。手を差し伸べてくれた相手に対して感謝することができれば、その手はもっと多くの人を助けるようになると思いませんか。

当たり前のことに感謝 (1)

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人によって全く異なる“当然”

“当然”と言う言葉。「これくらいは、できて当然」、「そんなもの、言われなくてもやるのが当然」等々。当然のことをした方としては、いちいち相手からのお礼を期待しているわけではないのでしょうが、それでも、「やって当然」という態度を見せられると、良い気分はしないものです。

 

以前、私が北米に駐在していた頃、現地社長の秘書が私のオフィスに飛び込んできて、こう言いました。「日本では秘書がどのように扱われているかなど、全く興味は無いけれど、せめて、ここでは私のことを最低限リスペクトしてほしい」。彼女は口惜しさから、目を真っ赤にしていました。

 

呆気に取られている私に、さらに彼女が言葉を続けます。「お願いだから、プレジデントに、“プリーズ”と“サンキュー”だけはつけるように言ってちょうだい」。

 

自分の仕事を感謝してもらいたいわけでは無く、奴隷に対するような命令口調を止めてもらいたいことと、自分が何か役に立っているということを実感したいだけだ、と彼女は言います。

 

私は彼女を宥めながら、厄介なことを引き受けてしまったと思いました。決して社長は悪い人ではないのですが、ぶっきらぼうなところがあることと、彼が長い間東南アジアのとある国に駐在していたことが、今回のトラブルの原因でした。

 

社長が若かりし日に駐在していた国では、一家に一人、メイドさんがつくことになっていました。食事や掃除、家の中のことは全てお任せです。メイドさんに対する指示は、片言の英語、あるいは、単語の羅列で済んでしまいます。そして、メイドさんは、雇い主の言いつけに従順に従うものだというのが“当然”だったのでした。

 

社長は、その意識をそのまま北米に持ってきていました。秘書からしてみれば、まるでペットにお手をさせるような指示や、仕上げた仕事に対する無反応と言った上司の態度に、我慢できなかったのでしょう。

 

私は、できる限り慎重に言葉を選んで、秘書への指示の仕方について社長に話をしましたが、聞く耳持たずといった態度でした。私にとっては予想どおりの結果でした。社長は以前から、事あるごとに、過去の駐在経験を引き合いに出して、北米での駐在が気に入らないことをこぼしていました。

 

ところが、しばらくして、秘書が嬉しそうな顔をして私のところにやって来ました。「プレジデントが今日、初めて“プリーズ”を使ったわ!」 赤ん坊が初めて笑った、というのと同じくらいの喜びようです。私は怒られ損をした気分だったのですが、彼女のその一言で救われた気がしました。

 

社長としても、自分よりも30歳近く下の私から、諫められたことは面白くなく、急に態度を変えることに抵抗があったのでしょう。少し間を開けてから、徐々に秘書への態度を変えていったようです。

 

それはともかく、仕事だからやって当然ということであっても、相手に「お願いしてやってもらう」、そして「やってもらったことが役立っている」という気持ちを伝えないと、相手から仕事に対する遣り甲斐を奪ってしまうことになると感じた一件でした。

 

感謝の言葉は減るものでは無い

そんな経験もあって、私は帰国してからは、言葉でのコミュニケーションには、一層気を遣うようになりました。今でも、誰かに仕事をしてもらった時には、必ず「ありがとう」という言葉は欠かさないようにしています。直接でもメールでも、相手が「お礼には及びません」と言ったとしても、感謝されて気を悪くする人はいないはずです。

 

同僚や部下と食事に行った時に、私が「頂きます」とか「ありがとう」と言うと、たまに、奇異な目で見られることがありますが、お店の人に感謝しても罰が当たるわけでも無く、相手が気分よく仕事をしてくれるのであれば、それに越したことはありません。「こっちはお金を払っているのだから、やってもらって当然」という者がいましたが、お店が「サービスを提供しているのだから、お金を払うのが当然」と考えていたら、どんな気持ちになりますか。

 

余談ですが、「頂きます」に該当する英語は、どうやら無いみたいです。「レッツ イート!」と言うのも的を射た表現ではありません。彼の地で、同僚や取引先の人と食事をするときは、全員のプレートが運ばれてきたら食べ始めるというのが習慣でした。時々、フランス語で「ボナ ペティ」(召し上がれ)と言って食べ始める人を見かけることもありました。私が日本語で「頂きます」と言うと、周りは「何、それ?」と訝しがります。そこで、料理を作ってくれた人や食材を提供してくれた人への感謝や、自分が生きて行くために生き物の命をもらうことに対する感謝を表す言葉だ、というようなことを言うと、何となく納得はしてくれます。「それは、武士道か?」と的外れな質問をされたこともありますが・・・。

 

「やってもらって当然」、「あるのが当然」、など、“当然”のことは、本当に当然のことなのか、生まれてくる人間に漏れなくついてくるものなのか。よく考えると、そんなことは無いと気づきます。「給食費を払っているのだから、子供に“頂きます”は言わせるな」などと、わけの分からないことを言い出す親が出てきたのは、“当然のことが、実は当然ではないこと”を学ばずに大人になってしまった人々が増えてきている証拠だと思います。(続く)