和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

しがらみからの解放

必要悪

今のように裏方的な仕事に専念するようになってから、私は仕事上のストレスをほとんど感じなくなりました。

 

以前の私にとって何が煩わしかったかと言えば、社内での“根回し”でした。案件を通すための会議があれば、議場で横槍を入れてきそうな役員や他部署の部長に事前説明を行ないます。また、自分の上司の担当役員が不用意な発言をしないように読み上げ原稿も用意します。

 

役員会議の形骸化は今に始まったことではありませんが、議論が紛糾することを恥と感じる役員がほとんどとなると、そうならないような事前の手立てを講じて、本番の会議は“シャンシャン”で終わらすようにすること自体が、案件そのものよりも重要視されます。

 

そのような地ならしや根回しをすることは私の本意ではありませんでしたが、会議が紛糾して仕切り直しをするようなことになれば余計な手間と時間がかかります。社内調整は仕事の本筋ではありませんが、無駄な仕事を減らすための処世術であり必要悪なのだと諦めてきました。

 

仕事で関わる人間は、自分がそこで働いている限り選り好みが出来ません。苦手な相手や上司と良好な関係を保つためには、自分の気持ちに蓋をする必要があります。

 

しがらみからの解放

元来、私は人付き合いが得意ではありません。私の同僚や後輩社員は私のことを社交的だと思っているかもしれませんが、それは本当の私ではありません。

 

本当の私は自分の自由に出来る時間があれば、日がな一日誰とも口を利かず読書や趣味に没頭していても苦にならない ‐ そんな内向きな人間なのです。

 

そんな人間が、仕事のためとは言え、自分とは真逆とも言える性格の人間の振りを続けることは苦行でしかないのですが、とにもかくにも私はそのような役柄を三十数年の間演じてきました。

 

私が働き方を見直したのは、妻の看病をしたい気持ちと家族との時間を大切にしたいとの思いからでした。当初、私は仕事をセーブしながらモチベーションを維持する自信を持てず、疎外感に打ちひしがれることも覚悟していました。

 

ところが、私を待っていたのは肩の荷が下りた安堵感でした。それは単に忙しさから解放されたからではなく、社内の諸々のしがらみから抜け出せたことが理由だと思います。

 

現在の仕事は決して自分が切望したものではありません。しかし、望んでいなかった仕事でも、その中でやりがいは見つけられます。わずか三年あまり前にも拘わらず、“らしくない”役柄を演じることに汲々としていた自分が懐かしくなるほど、今の私は仕事を楽しんでいます。