和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

様々な真実

信奉の反動

先日、会社のコミュニケーションタイムに先輩社員と雑談をしていた時に、最近亡くなった大江健三郎さんの話題になりました。

 

先輩は、大江さんの熱心な信奉者だったそうですが、沖縄での集団自決を取り上げたルポルタージュ、「沖縄ノート」が名誉棄損で訴えられた裁判と、大江さんの裁判への対応から、「大江信者ではなくなった」そうです。

 

恥ずかしながら、私は、中学生か高校生の時分に一度切り「沖縄ノート」を読んだだけで、また、裁判の経過については新聞記事で知った以上の情報を持ち合わせていなかったので、先輩のように憤慨することもありませんでした。

 

先輩が大江信者でなくなったのは、法廷で自らの主張を述べることが無かった大江さんの対応から、「沖縄ノート」そのものに対する信用が揺らいでしまったことが理由でした。

 

熱心な信奉者であればあるほど、自分が裏切られたと感じた時の反動は強いものなのでしょう。それは分からなくもありません。ただ、小説であれエッセイであれ、作品をどう受け止めるかは読者次第で、作家と作品は切り離して考えた方が良さような気もします。

 

様々な真実

住民の集団自決が、日本軍による強制だったのか否か。生存者や関係者の証言だけを頼りに判断を下すことは容易ではないと思います。大江さんは沖縄での取材の結果、集団自決に軍が関与していたとの確信を持ちましたが、他方、それに反する証言も少なくありません。

 

沖縄ノート」で書かれた“真実”に対し、それを否定する“真実”もあります。同じモノを見ても、視点の数だけ真実は存在するのです。様々な意見を収束させて一つの結論を導き出すのは無理があります。むしろ、私は、作家の主張ありきで証言が集められはしなかったかという点で検証は必要だったのではないかと感じました。自分の考えを裏付けするために都合の良い証跡をかき集めるのは、“ありがち”なことです。

 

ルポルタージュとて、公正中立な視点で書かれた保証などどこにもありません。作家は、手にしたペンで新たな真実を作り上げることさえ出来るのですから、それをどのように受け止めて解釈するかは、詰まるところ読者に託された責任なのだと思います。