和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

虚無と充実(2)

“こうありたい”自分

日常の中での“こうあるべき”自分と、本来の“こうありたい”自分。私は長い間、“こうあるべき”自分こそ人生の目標なのだと考えていました。“こうありたい”自分をある程度犠牲にするのは目標を達成するためにはやむを得ないことと自身に言い聞かせてきました。

 

しかし、自分は何のために生きているのか、何を成し遂げたいのか、何を楽しみたいのかを冷静に考えて見ると、それは“こうあるべき”自分とは随分とかけ離れたものだということに気がつきました。

 

妻の看病をするために仕事から離れると決めた時点で、私は、一緒にいたい人に寄り添い支えることが、自分のやりたいことだと気づいていたのだと思います。約二か月の介護休業の間、仕事から完全に切り離され大切な人と過ごす時間は、それまで私の視界を遮っていた靄を払い除けるための時間でもありました。

 

自分の望みどおりの時間を過ごしている時、私は仕事では得ることがなかった活力を感じることが出来ました。生き生きとしている実感は、それが“こうありたい”自分の目指すものだからなのだと思いました。

 

充実感

私は、これまで仕事をしていて虚しさを感じることがありました。自分の労力や時間を費やして何かを成し遂げでも、ほんのわずかな達成感がすぐに徒労感に変わってしまうからでした。

 

得てして、仕事は自分の思うように進められないことがありますが、私の場合、自分の思いと与えられた任務に折り合いをつけようとして、“こうあるべき”自分を作り出していたのだと思います。

 

“こうあるべき”自分の幸せは、会社のモノサシに左右されてしまいます。自分が会社から与えられた目標に適った結果を残せたか否かは自分で決めることが出来ません。自分が成し遂げた結果が期待に沿うものなのかは期待する側が決めることです。自分の“出来栄え”は同じモノサシを与えられた他者との比較でしか判断出来ません。

 

しかし、他者と自分を比較することから生まれるものは優越感あるいは劣等感であり、それは幸福感とは異なります。

 

他方、“こうありたい”自分の幸せ、他者の成功や失敗とは無関係で、自分に対する評価とも何の関わりもありません。

 

“こうありたい”自分が本当に引き受けたい役割は、自分の内から湧き出る使命感を源泉とするもので、それは枯渇することなく、自身の活動の原動力となります。そして、その役割からは充実感を得ることが出来ます。