和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

自分の死の準備

死の不安

私が小学校に上がったばかりの時でした。父親の経営する会社の従業員の方が亡くなりました。我が家の裏手のアパートに独り暮らしで、朝食も夕食も私たち家族と一緒でしたので、私がずっと親戚のおじさんだと思い込んでいた人でした。

 

その朝、出勤時にアパートの階段から転げ落ちたおじさんは、我が家での朝食の後、急に具合が悪くなり救急車で病院に運ばれ、そのまま帰らぬ人となりました。

 

身寄りのなかったおじさんの葬儀は、父が喪主となって執り行われました。私は初めて人の死顔を見ました。頭には包帯が巻かれていましたが、穏やかな寝顔にしか見えませんでした。

 

今まで自分に優しくしてくれた大人が突然いなくなり、私は子供ながら、死に対して漠然とした恐怖心を抱きました。死がどんなものなのかは分からなくても、ずっとそばにいた存在を失ってしまうことを怖いと感じました。そして、私の両親もある日自分の目の前からいなくなってしまうのではないかと不安で堪らなくなりました。

 

自分の死の準備

自分で生活の糧を得られるようになり、背負うものが出来てからは、私にとっての死への不安は、取り残されてしまう家族の“その後”に対するものに変わりました。生命保険も貯蓄の一部も、自分自身のためではなく、残された家族が路頭に迷わないために用意しているものです。

 

人の命など分からないもので、見るからに健康な人でも、予期せぬ事件や事故に巻き込まれて逝ってしまうこともあります。他方、私の母親のように、「来年の桜は見られない気がする」と二十年近く同じセリフを繰り返している人間もいます。

 

ただ、間違いなく、他の生き物同様に人はいつか死にます。何の保証も無い人生で唯一約束されていることは“死ぬこと”です。上々の人生を送った人も、そうでなかった人も、全てをこの世に置いて旅立つことが決まっています。

 

残された家族が安心して暮らせるように準備しておくことは、自分に与えられた責任であって、人生の目標そのものではないのですが、元来怠惰な性格の私が今まで投げやりにならずに生きて来られたのは家族のお陰です。

 

「生きる目的」など、数多いる哲学者が寄ってたかっても、万人が腑に落ちる答えを見出せないでいるわけですから、私がその答えを見つけられるはずはありませんが、まずは家族が安心して暮らしていける環境を維持することが私の役割なのだと納得することにしています。