和尚さんの水飴

老後の前のハッピーアワー

歳を取ってからの気づき(1)

物の価値

年長の方からのアドバイスが身に染みて分かるようになるのは、実際に自分が歳を重ねてからなのだと思います。頭では理解しても実感が伴わなければ、行動に移すことはなかなか出来ません。ある日、はっと気づいて過去の自分を恥じたことが何度もあります。

 

新入社員の頃、複数の会社が共同出資して立ち上げた関連会社に出向になりました。私の上司は総合商社からの出向者だったのですが、その人から私は仕事と人生訓を教えられました。

 

今の私が自分の中で反芻し、また、自分の娘たちの伝えようとしていることの多くは、その人からの受け売りです。

 

自分が一生でどうしても手に入れたいもの、実行したいことの優先順位の大切さ。その人から何度も言われたことでした。結婚したばかりの私は、妻とともにキャッシュフロー表を作りはしたものの、それは単に長期的な収支計算を眺めるため以上のものにはなっておらず、生涯収入を想定して私たちの優先順位に従って切り分けるようにしたのは、その上司のアドバイスを受けてからでした。

 

あれも欲しい、これも欲しいと思っているとお金はいくらあっても足りない。自分が本当に欲するものに投じるお金を用意するには、見栄や欲に振り回されてはいけない – そんなことも言われた記憶があります。

 

当時の私は、決して刹那的に生きているつもりはなかったので、その言葉が今一歩ピンと来なかったのですが、誰かが持っているものを羨ましがったり、値段の高い物やブランド品を手に入れたいと思ったりしたことは何度もありました。私はきっと、自分の持っていない物や名前の通った品物を手に入れる行為そのものに価値を見出そうとしていたのだと思います。

 

基準

社宅住まいの私たちとって、そこの住人は一歩先を行く自分たちの将来の姿だと思い込んでいました。着ている物や子どもの習い事 – 同じ会社に勤め同じ程度の給料をもらっているはずの世帯の暮らしぶりが自分たちの“基準”だと勘違いしていました。同年代の住人が家を買って社宅を出たと聞けば、自分たちもそろそろ“そういう時期”なのではないかと焦りました。

 

そんな時に立ち返るのは自家製のキャッシュフロー表とあの上司の言葉でした。それは、無理をして我慢をして一度決めたことを曲げずにいるためではなく、冷静に私たちの目標に変わりがないかを確認する“儀式”のようなものでした。

 

そのような“儀式”に頼るのは、自分たちの“基準”があやふやで、要不要の見極めが出来ず、他者の様子が気になってしまうからでした。

 

今でこそ、「他人は他人、自分は自分」と言えますが、あの時の上司の言葉がなかったら、見栄や欲に振り回されて、人生の目標を見失っていたことでしょう。

 

価値観は歳を重ねるにつれて変わっていくのでしょうが、私は上司から教えてもらった“物の見方”にようやく追いついてきた感じがします。(続く)